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2009年10月

2009年10月29日 (木)

報恩講のお知らせ

正善寺の報恩講を次のように行います。

11月3日 逮夜 午後三時より

          お勤め  正信偈真四句目下げ 念仏和讃

      初夜 午後七時より

          お勤め  正信偈草四句目下げ 念仏和讃

          御伝鈔拝読  

      説教 覚善寺殿(逮夜・初夜とも)

どうぞ皆様お参りください。

2009年10月27日 (火)

27日尼講での法話

今回は報恩講の前なので、報恩講に欠かせない『御伝鈔』の紹介。

情感の第一段第二段を紹介しながら、親鸞聖人が得度されてから比叡山を下り、吉水に法然上人を訪ねるところについてお話をさせていただきました。

2009年10月22日 (木)

恩を報じ徳を謝せよ

「浄土文類聚鈔」の中にある聖句を掲示板に貼らせていただきました。

恩を報じ徳を謝せよ

報恩講の季節です。

このお言葉を深く味わいたいと思います。

2009年10月21日 (水)

尼講のお知らせ

今月の尼講は、27日に行います。

正信偈のお勤め、住職の法話。

そのあとはお茶とお菓子をともにおしゃべりなどをいたしましょう。

尼講

10月27日(火) 午後七時より

浄土三部経のこころ

加藤智見さんの御著書「浄土三部経のこころ」を読みました。

阿弥陀経はあげる機会も多く、御門徒の方もよく知っておられるお経ですが、お経の内容は?ということになるとなかなか難しいとお感じになっているかもしれません。(漢文ですしね。)

大経と観経になると、御門徒の方があげられるということは少ないでしょうし、僧侶があげているのを、意味がわからんがお経だからありがたいのだろう。と思いながら聞いておられるという感じかと思います。

浄土真宗のよりどころとなる経典は、浄土三部経ですので、このお経について理解していただくのは、とても大切なことです。

この御本は、三部経の大切なところをやさしい言葉でわかりやすく説いてくださいます。

薄い本で、手に取りやすい本です。読むのに、それほど時間もかかりません。

お寺さんが上げてるお経には、何が書かれているのか?興味がある方は、ご一読ください。

2009年10月19日 (月)

命のつながり

命のつながり

 今日は紙と筆記用具を用意していただきたいと思います。まず紙の下辺の真中に「私」と書いて丸で囲みます。その上に「父」「母」と書いて丸で囲んでください。「私」には「父」があり、「母」があります。このようにして、自分の系譜を十代前まで遡ってみてください。仮に親戚同士の結婚がないとすれば「父」「母」合わせて千二十四人が紙の上に書かれているはずです。
  この多くの「父」「母」のうち、一人でもこの世に現れなかったならば、あるいは子をなさなかったならば、今現在「私」は生ある身ではなかったはずです。
  このように私たちは、多くの命につながれて今を生きています。そして、私の隣の人も多くの命につながれて生きているのです。このように気づくとき、人間の生命がこの大宇宙の中で欠くことができないものものであり、非常に貴重なものであることが感じ取られます。そして、私の命は大きな命の一部としてはからずも「生かされている」
ことに気づくでしょう。
 自殺者が年間三万人になろうという今日、「命」を見つめ直してみましょう。

この原稿を書いた頃には、「自殺者が年間三万人になろうという今日」という表現でよかったはずですが、今は、年間三万人を超えており、政府や自治体が自殺者減を目指し、いろいろな取り組みをするのがあたりまえになってしまいました。

五木寛之さんが、御著書で三万人を強調しておられ、これはたいへんな状況では、と認識を新たにしていた頃に書いたものですが、事態は深刻になってきているといわざるを得ません。

「命」を見つめ直すことの重要性を訴える声も、もっと大きくなる必要があります。

そしてその訴えがひとりでも多くの人の心を動かしていくことを望みたいと思います。

例によって、新聞掲載時とは表記を改めたところがあります。

2009年10月18日 (日)

手足なき 身にしあれども

中村久子さんは、四肢切断にもかかわらず、親鸞聖人の教えに出会い、念仏を心の糧として生きられた方です。日本のヘレンケラーともいわれ、「こころの手足」は、多くの人に読まれています。新聞掲載時とは、表記を改めたところがあります。

手足なき 身にしあれども
 中村久子さんは三歳の時突発性脱疽(だっそ)のため両手両足切断という過酷な事態に見舞われました。苦しい闘病生活の中で、母の厳しいしつけを受け、努力して文字を書くこと、縫い物、編み物を修得されました。
 当時このような身では生きる糧を得ることも難しく、興行界で生きることを余儀なくされました。そして苦難の人生の中で『歎異抄』に出合い、念仏者として生きられました。
 両手両足がないということは、非常に大きなハンディキャップであるでしょう。そして我々が想像することも難しいほどの喪失感が、久子さんを襲ったのではなかったでしょうか。しかし、久子さんはその喪失感を生きる力に変えていきました。お念仏と出合い、障害を持つ自分の命を「生かさるる」命と捉え直しました。そうすると自分の命が非常に尊いものであることに気づき、命あることを喜ばれる境地になられたのです。
 最後に久子さんのお歌を味わってください。


 手足なき身にしあれども  

 生かさるる

 
 今の命は尊かりける
 

2009年10月15日 (木)

忘れまいぞと思いはせねど

妙好人おかるさんのおはなしですが、報恩講についてのお話にもなっています。

報恩講のご縁をよろこびつつ、読んでやっていただけるとありがたいです。

『心のしおり』に掲載されたものですが、表記は改めたところがあります。

忘れまいぞと思いはせねど

 今年の四月、六連島(むつれじま)に妙好人おかるさんの足跡をたどりました。おかるさんは、夫の不実を知り瞋恚(しんい)の炎を燃やしましたが、地元の西教寺の住職によって教化されました。その後、お念仏に生かされる喜びを多くの歌に詠まれた方です。その歌に次のようにあります。

 忘れまいぞと思いはせねど

 忘れられぬが祖師の恩

 浄土真宗では、親鸞聖人を祖師と呼びます。そして聖人への報恩感謝の意を込めて報恩講をつとめます。寺院のみならず、在家の各家でも報恩講をつとめています。
 報恩講の時に親鸞聖人のご恩に感謝すると言いますが、このご恩はいつも受けているものです。ところが、私たちはともするとはっきりわかる機縁がないとなかなか感謝するということができないでいます。
  「忘れてはならないと思ってはいないのだが、忘れることのできない親鸞聖人のご恩」とおかるさんは歌います。日常の日暮の中で、何と多くの報恩感謝をしていることでしょう。私たちも、できるだけ多くの機縁を求めて報恩感謝の念を表していきたいものです。

文中に「今年」などとありますが、もうずいぶん前のことになってしまいましたので、あしからず。

2009年10月13日 (火)

珍しいことだ

珍しいことだ

 妙好人として有名な因幡の源佐は、こう言いました。  珍しいことだ、凡夫が仏 になるということは
 仏とは「真理に目覚めた人」のことであり、真理に目覚めれば誰でも仏になることができます。仏教は「仏になる教え」と言えるのです。しかし、凡夫と言われるどうしようもないこの身が仏になるとはちょっと考えにくいかも知れません。
 阿弥陀如来はまた「不可思議光」とも呼ばれます。不思議な光の仏さまです。私たちは心に多くの煩悩を持つ身です。それは理想的なあり方とはほど遠い姿なのです。しかし、その姿は我が身の真実なのです。煩悩をすべて消し去って仏にふさわしい身となるというのも一つの方法ですが、とうてい凡夫には成しがたいことです。残された道は、阿弥陀如来のみ光によって写し出された真実の自分の姿に気づくことです。
  阿弥陀如来のみ光によって、私たちのどうしようもない現実が照らし出されます。そのとき私たちは自己の真理に目覚め仏になることができるのです。
 非常にありがたく、「珍しいこと」といわざるを得ません。

『福井新聞』『心のしおり』に掲載されたものです。表記は改めたところがあります。

2009年10月 8日 (木)

ぞうきん

以前は、お掃除というとぞうきんとほうき、ちりとりでした。

最近は掃除機やモップに変わってしまったのかもしれませんが、ぞうきんのことを考えてみましょう。

これも「心のしおり」に掲載されたものです。表記は新聞掲載時と変えているところがあります。

ぞうきん

 榎本栄一さんは何気ない日常を詩の題材に深い教えを私たち前に提示してくれます。その詩に「ぞうきん」と題する一編があります。

 ぞうきんは

 他のよごれを

 一生けんめい

 ふいて

 自分はよごれにまみれている

 私たちは、ぞうきんを汚いものとして扱ってしまいがちです。しかし、ぞうきんのあり方をよく考えるとき、ぞうきんが私たちを導いてくれるのです。
 ぞうきんは「他のよごれをふ」くものです。ぞうきんによって周りのものは、美しく保たれ、その輝きを見せてくれます。しかしながら、他のものをきれいにしたぞうきんは、ふけばふくほど汚れていきます。このぞうきんのあり方を私たちと比べてみましょう。
  私たちは、自分の身の美しいことを願います。そして汚れを遠ざけ、ある場合には汚れを他に押しつけます。浅ましい姿ですね。
 一方、他の汚れを一身に受けるぞうきんは、他を輝かせていきます。
  このようなぞうきんのあり方に気づくとき、私たちはぞうきんに感謝の意を込めて手をあわせなければなりません