浄徳寺さんの報恩講
明日は浄徳寺さんの報恩講。
10月17日 日中 午前10時 逮夜 午後3時
お参りください。
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明日は浄徳寺さんの報恩講。
10月17日 日中 午前10時 逮夜 午後3時
お参りください。
「福井新聞」の「親鸞なう」15日付
まず、1面トップに「親鸞なう 750年の時を超えて」が大きく出ている。
他の新聞は、この日の一面トップはチリの落盤事件の全員救出だったのではないか。
題字は武田双雲さん。なんだか福井新聞はこの特集にかけている感じだ。
「近づく750回忌」とある。もちろんこれが特集を組むきっかけなのだろう。
「不安の時代 高まる関心」と大きく。時代性が親鸞を求めているといいたそう。
1面はプロローグとして、浄土真宗寺院が多く、真宗十派のうち四派の本山が福井にあるなど、福井の「真宗大国」ぶりに触れる。
そののち、人間親鸞への関心の高まりを指摘。
福井での信仰離れについても危惧の念を表明。
そこから、親鸞を取り上げる意義を述べるのだが、何で「親鸞なう」としたのかについては、
750年の時を超えて、「親鸞のいま」を探る旅を始めよう。
という記述があるだけ。私の疑問は持ち越されたままだ。(苦笑)
この日の福井新聞は、16面17面の2面ぶち抜きで(広告も2つ載っているが)報恩講に集まる御門徒の写真を大きく載せ、親鸞聖人の略年譜・四か本山の写真を載せ、真宗王国をアピール・キーワードとして「他力本願」「悪人正機説」「南無阿弥陀仏」を取り上げその簡単な解説、など。
「親鸞なう」県民意識調査というものも大がかりに行うようだ。(結果は気になります)
この連載を通して、御遠忌への関心が高まり、親鸞(聖人)の教えに触れる人がより多くなることを期待したい。
「福井新聞」(10/13)「編集ノート」によれば、15日から「親鸞なう」という長期連載が始まるという。親鸞の生涯をたどり、県内の仏教風土を探る企画なのだという。
どういうものになるのか注目したい。
しかし、この題ツイッターでつぶやく企画なのではないでしょうね(笑)。
同じ「福井新聞」。親鸞聖人が84歳の時、「仏説無量寿経」を書き写したものが見つかり、大谷大学で直筆と鑑定され、大谷大博物館特別展で展示されるという。
新聞掲載の写真を見ると、次の箇所が書き写されている。(書き下し文で)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、諸々の説く本を植えて、、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。 (第二十願)
たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。(第二十二願の一部)
大経の中で、阿弥陀様(法蔵菩薩)が四十八の願をたてるのだが、そこが大経の一番大切な所とされている。
昨日は親戚のお寺の報恩講初夜に出勤。
お西なので、うちの寺ではあげることのない初夜礼讃での勤行。
ほとんど経本を見てどこをあげているか確認するだけの形になる。
ご出勤の御法中も親戚ばかりなので、気楽な雰囲気で、いろいろなお話を楽しむ。
お説教は、この報恩講の御座で布教を最後にするという布教使さん。
堂々とした語りぶりで、自分の布教人生を振り返るような内容。
念仏相続にかける思いが伝わってくる。
佛性寺さんで出しておられた施本『報恩講』は、東本願寺から出ているもの。
保育園児の文が三つ載っている。
ゆうぎしつにも
おそとにも
あっちにも
こっちにも
ののさまがいて
みてはるよ。
おまいりにいくと
たのしくなる
だって
ほとけさまが
だいすきだから
わたしは合掌がとくいです
だからおまいりすると
うれしくなります
素直でいい言葉ですね。
私たちも、こんなふうな思いで報恩講にのぞみたいものですね。
さて、正善寺の報恩講のお知らせです。
報恩講
11月3日(水) 逮夜 午後3時より
(その後お齋があります。)
初夜 午後7時より 御伝鈔拝読
どうぞお参りください。
佛性寺さんの報恩講が終わりました。
御伝鈔を読ませていただきました。
下巻の後半が私の分担になりますが、最後の親鸞聖人がお亡くなりになるところは、やはり胸にしみるところです。
山元派の御伝鈔は、本願寺さんのように、御廟を建立したりするところはないので、東西本願寺さんの御伝鈔になれている方には、不思議に思われるかもしれませんが、山元の地に聖人がお立ち寄りになるお話があったり、独特なところがいくつかあります。
御伝鈔を読むと、親鸞聖人の御一生に思いをいたすことが出来、よいご縁をいただいたと感じます。
今日11日は佛性寺さんの報恩講です。
日中 午前10時 逮夜 午後2時
お参りください。
親鸞展が福井市立郷土歴史博物館で開催されるそうです。
親鸞展(特別展 親鸞聖人七五〇回忌記念企画)
平成22年10月30日(土)~11月29日(月)まで
福井市立郷土歴史博物館
田代俊孝さん「ひと・ほとけ・いのち」を読んだ。
副題に「『非科学』のいのち論」とある。
帯の言葉の一部を紹介しておきたい。
有無(うむ)にとらわれた、科学で量る”いのち”より、父母、祖父母より貫かれた繋がりのある、共生の”いのち“涙の出る”いのち”に、今こそ目覚めなければならない。
知らぬ間に現代は、いのちを数値化し量るものとしてしまった。それが科学信仰に由来しているのだが、本来の“いのち”は数値で量られるものではなく、つながり、関係の中であるもののはず。
気づきにくいことなのかもしれないが、そういう現代の問題点を仏教の立場から指摘してくださっている。
前にも「ありがとう」で触れた三浦明利さんのファーストアルバム「チェリッシュ」を聞いている。(CDでは「三浦あかり」と表記)
初期の作品ということで、あまり宗教性はないというふうに聞いているが、たしかに「ありがとう」や「en」(「2007全国真宗青年の集い 本願寺大会」 テーマソング ここから)のようなあらわに浄土真宗の教えを伝えるというものではないようだ。
若い女性らしい感性に満ちた歌詞なのだが、メッセージ性もあり、面白い。
そのなかから、ちょっと紹介。
有罪も無罪も 戦争も平和も
全部抱え込むのが私たちだけど
同じになれるなら
願いはひとつ
確かに此処にある この心のここにある
願いはひとつ
世界中がひとつになること
パラダイムもモラルも 理想も矛盾も
全部抱え込むのが私たちだけど
同じになれるなら
(「願い」より)
この「願い」は歌詞からは一般的に「世界中が一つになること」なのだろう。
往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。(「親鸞聖人御消息」より)
この親鸞聖人の言葉をあわせると、人それぞれのご信心のありようによって、お念仏を基礎として「世のなか」の「安穏」が願われることがわかってくるだろう。
いろいろな存在としての私(複数)がお念仏を申すところに、「願い」は生まれてくるのかもしれない。
先日、ある方のお話を聴いて、御信心の中心はやはり仏さま(阿弥陀如来)であると再確認したが、いろいろな存在としての私たちが仏さまを中心につながっていくことが、「願い」なのだと、この歌を受け取ってみたいと思っている次第。