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2011年7月

2011年7月31日 (日)

女の覚悟 ひとり悩むあなたへ贈る言葉

川村妙慶さんの新著『女の覚悟 ひとり悩むあなたへ贈る言葉』を拝読。

妙慶さんの本は一通り読ませていただいているが、この本は悩みに向き合う妙慶さんの姿勢に感動を覚えた。

この方は悩み相談を長年されているが、その際の姿勢はいつも真摯で、仏教的だと思う。

この本では、今まで以上にひとりの人間としての(真宗的に言えば「ひとりの凡夫としての」)川村妙慶が文章の背景に見えてくるような感じだ。

相談者の悩み、苦しみの切実さはもちろんのこと、回答する川村妙慶その人が、丸ごとの人間としてご自分の悩みや苦しみの経験やそこからつかみ得たものを総動員して回答しておられる。

そういうふうに感じられた。

しかし、そこを踏まえながらも妙慶さんの回答は明るく、相談者にある転換をもたらしてくれそうな感じである。

「心をす~っと軽くしたいとき、この一冊」と帯にあるが、この本を読んだ人は実感として受けとめられるのではないだろうか。

妙慶さんはご自身のブログ「日替わり法話」でこの本のことを書いておられる。

一読の価値有り。お薦めの本です。

2011年7月28日 (木)

尼講のお知らせ

昨日の尼講の際に、来月の尼講の日取りも決まりました。

尼講 8月27日(土) 午後7時より

ご参集くださいね。

尼講終了

昨日の尼講、終了いたしました。

法話は三浦明利さんの「ありがとう」(インディーズ版とメジャー版)を聴いていただき、歌詞を改められたことの意味を、仏教から考えてみた。

「ありがとう」は、親しみやすい曲なので、CDに合わせていっしょに歌われる方もいて、和やかな感じに。

2番の歌詞が改められており、そこに仏教的深まりを見たいと思うのだが、今回は特に「一人じゃないと応えてくれた ありがとうを伝えよう」というあたりを取り上げる。

「報恩講の歌」の2番や「しんらんさま」の2番あたりから、「一人じゃないと応えてくれた」というのは、「報恩感謝」のお念仏から、まざまざと「親鸞聖人」や「阿弥陀様」がいつもおそばにいらっしゃるということの実感をいっているのではないかと。

そして、その気づきこそが大事なところなのだと。

三浦さんがこのように歌詞を変えられた理由をご本人から聴かせていただいたわけではないので、私のお味わいということだが、詞の味わいが、私は違うというお話が出て、それについてお話をさせていただいたり、まとまりはないかもしれぬが、いろいろと話が広がり、話をしていて面白かった。

2011年7月27日 (水)

小沢昭一が訪ねた能登の節談説教

CD「小沢昭一が訪ねた能登の節談説教」を聞いている。

節談説教について特に詳しいわけでもないで大したことを言えるわけではないが、節談説教をしてしまう小沢昭一さんの芸の広さにはびっくりする。

このCD節談を広く知らしめた功績があるCDだということ。

茂利宗玄師・広陵兼純師の説教がおさめられており、節と語りの渾然一体となったというか移り変わりというか、非常に微妙な味わいがある。

節談が教義をどれくらい正確に伝えているかという点については疑義を持つ向きもあるようだが、民衆に教えを伝えるという点において、一種芸能とも言える語りの妙味は一定の意義を果たしているのだと思う。

「布教大会」としてこういうものが催され、満堂の人が集まるのは、大きな信の力なのであろう。(ただ、能登の布教大会にピリオドが打たれた、と側聞した。一度でいいから、この大会にお遇いしたかったなあ、と思う)

ノスタルジーを感じさせるような能登の冬景色の中に立つ小沢さんの表紙(?)も味わい深い。

お話

仏教の研究をしておられる方とお話をする機会を得た。

真宗の在り方、お寺の在り方、等々いろいろなところへ話は発展したのだが、小さな寺で考えていることと、全国の状況をご覧になり、いろいろな在り方をご存じの方の考えていることは、ずいぶん違っており、大きな刺激を受けた。

ずいぶんと今までの意識や在り方が揺さぶられた感じで、視野を広くせんとあかんなあ。と思う。

本日、尼講です。

皆様どうぞお参りください。

2011年7月26日 (火)

尼講のお知らせ

明日のこととなりましたので、尼講のお知らせをさせていただきます。

尼講

7月27日(水)午後7時より

正信偈のお勤め 住職の法話 後はお茶とお菓子とおしゃべりと

盂蘭盆・墓参法要(墓参り)についても改めてお知らせしておきます。

墓参盂蘭盆会法要

8月7日(日) 午後3時より (お齋があります)

法話 本願寺派布教使 岩見順明氏

どうぞ皆様お参りください。

有縁の方には、近日中にご案内が届くと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

東別院暁の人生講座

東別院で池田勇諦師の「逆さ富士」と題するお話をお聞きする。

池田師のお話はご信心について深くそしていきいきとしたお話であった。

浄土真宗のご信心とはこのようなものかと胸に深く刻み込まれたお話であった。

この方のお話に出会えて本当によかった、と思わせるお話である。

「逆さ富士」という、一見御法義とどう関わってくるのかと思われる題が、真宗の信心とは、まさに「逆さ富士」なのだと心から納得させられたのには、聴いている私も自分の御聴聞の転換に驚かされる。

2011年7月24日 (日)

五木寛之さんに聞く(9) 最終章・教えと生きる

すでに最終回を迎えてしまっている新聞の「親鸞なう」に追いつきそうです。

五木寛之さんに聞く(9)

750回忌のご縁と共に五木さんの「親鸞」掲載連動企画とも思われる「親鸞なう」の在り方からすれば、この方が最終回を飾るのは当然のことなのかもしれない。

幅広い発言をされている五木さんの記事は、ともすれば焦点がぼけているような気もしないでもない。

できれば、この問題をという形でお話を聞いてほしかったようにも思う。

特に印象に残ったのは、「十悪五逆」について。

大経の抑止門として捉えられているところに「唯除五逆 誹謗正法」とある。

「仏典には『信じてひたすらに念仏すれば救われる。ただし、十悪五逆は除く』とあります。それについて法然は意図的に触れていませんが、親鸞は教行信証の中で触れています。十悪五逆の悪人といえども除外しない、無差別救済するというのが親鸞の考えではないでしょうか。嘆き多い、悲しい、不幸な人間が救われるという考え方だと思います」

無差別救済、というところは、なるほどと思う。

東別院暁の講座

東別院の暁の講座で御聴聞。

ご講師:岩見 紀明 師(浄土真宗本願寺派 正玄寺住職) 

ご講題:逆噴射の時代に思う~念仏者の視点にたちて~

御講師は以前からよく知っている方。

ちなみに正善寺の盂蘭盆・墓参法要(8月7日)の御講師岩見順明さんの御父君。

内容は多岐にわたり、語りの迫力はすばらしいものがあります。

いろいろの方の著書・論文・映画等に触れながら、現代的な問題を追及されて、聖人のみ教えに行き着くというスケールの大きなお話でした。

久しぶりに岩見紀明師のお話を聞かせていただき、感慨が大きいところです。

2011年7月22日 (金)

生き方こそ(8) 最終章「教えと生きる」

福井新聞ではだいぶ前に最終回を向かえていた「親鸞なう」ですが、こちらではまだ続きます。(遅いね。)

生き方こそ(8) 

山折哲雄氏と池田勇諦師のことばを中心に構成されている。

山折氏はこう語る。

「現在の真宗教団は出家主義のようにも映る。信者からお金を集め、伽藍(がらん)を立派にし、豪華な袈裟(けさ)を着て仏事を営む」。親鸞は、当時公には認められていなかった肉食妻帯を行い、人々と同じ目線で信心を説いた。「この出発点を思い起こしてほしい。僧侶はどんな場面でも墨染めの衣を着るようなライフスタイルでよいはずだ」と訴える。「破戒僧や無戒僧が多くなる末法の時代にあって、あえて師の法然と違った道を行くと決意した親鸞の生き方はすごい」。

「師の法然と違った道」というのは、非僧非俗の立場のことを言うのであるが、清僧といわれた法然上人とはたしかに違う道であろう。この評価はいろいろあるのだろうが、他力の信心の徹底した姿といって良いのではないかと思う。

出家主義か否かはにわかに判断はできないが、親鸞聖人の在り方と若干の乖離があることは認めなければならないだろう。

とすれば、山折氏の発言は、肝に銘じておくべきだと思う。

人間にとって根源的な悪とは何か? それを乗り越えるためにどんなことが必要か? 道徳的退廃の現代において親鸞の『悪』の思想は、それらにこたえるものだ

現代の世相からこのことを導いておられるのだが、「悪」は、重要な問題なのだと思う。

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