お盆
7日盂蘭盆会墓参会が勤まりました。
多くのお参り、誠に有り難く存じます。
いろいろと持ち方に変化があったので、御同行の方々にも、お世話になる部分がいつもより多く、無事勤めることができ、安堵の感が強いところです。
このあたりは、お盆は旧盆で勤めますが、正善寺では、14/15日にご縁のあるおうちにお参りいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
真宗のお盆の意味を、寺報から再掲いたします。
盂蘭盆について
お盆の法会は「盂蘭盆会」といわれます。「盂蘭盆経」のお話が、その由来だといわれています。それはこのようなお話です。
ある時、神通第一の仏弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)が、餓鬼道(がきどう)に堕ちていた母親を神通力で見つけました。
なんとか母親を救おうとしますが、母親に食べ物を差し出すと、みんな炎となってしまいます。救うどころか、逆に母を苦しめてしまいます。
そこでお釈迦さまに救いを請いますと、七月十五日(旧暦)、雨期の安居(あんご)(勉強会)を終えた後、修行をしていた僧侶たちに、飲食物の供養をするように言われました。これを実行したところ、餓鬼道で苦しむ母親を救うことができたのです。
《この説法は、何を表しているのでしょうか?》
ここで大事な点は、修行して神通力を得た目連ほどのお方でも、餓鬼道の母に食べ物を施すことも、餓鬼道から救うこともできなかったということです。
お釈迦様がおっしゃるとおり、修行僧たちに供養することで、救われたということです。
供養とは、三宝(さんぽう)〔仏、法、僧〕への敬いの心を形で、表すことです。
母が救われたのは、目連が三宝に供養する姿を通して、母がはじめて三宝の貴さに気づいたからです。
このお話は、三宝こそ帰依(きえ)すべきものであるという仏、法、僧の三宝の尊厳性を示しています。(「三帰依文(さんきえもん)」をご覧ください。 「同朋勤行集」p1)
また、目連尊者でさえ母親を救うことができなかったということは、結局、物では人は救えないということも示しています。
物では人は救えないとは、どういうことでしょうか。
人の心を開き、心境を転換させるのは、物ではなくて、仏の説かれた法(真理)だということです。
法に帰依し、真実の道理に心開かれたとき、はじめて我欲(がよく)に翻弄される餓鬼でなくなります。
そこで、救われたというのです。
この点が欠落すると、仏教でなくなってしまいます。
お経に説かれた内容の表面だけをとらえ、しかも餓鬼を怨霊とみなし、それを救うために供物を施せばいいと考えますと、仏教とは関係ない怨霊信仰としての「施餓鬼(せがき)」になってしまいます。
一般的なお盆といえば、精霊の送り迎えなど、ほとんどが霊祭りの形態をとっています。
浄土真宗のお盆は、一般の先祖供養とは違うのです。
浄土真宗の み教えに生きた人びと(ご先祖)は、お盆の時だけ帰ってきて子孫の供養をうけるのではありません。
ご先祖は、阿弥陀如来の本願力によって、さとりの世界であるお浄土に生まれ、常に私たちを見護り導いてくださっています。(往相の回向・還相の回向)
亡くなった方も、私たちも、みんな阿弥陀様のお浄土で共に生きているのです。(お浄土は「倶会一処」の世界です。)
生と死を包んで一切を照らしてくださる阿弥陀様を念ずることを通して、はじめて私たちは亡くなった人達との共通の場(=「倶会一処」)が与えられていることに気がつきます。
そういうこの世を超えた領域の確認ができるのが、お念仏の世界です。
先祖との本当の心の交流は、阿弥陀様を介さないとできません。
亡くなった方と阿弥陀様を介してお遇(あ)いするとき、はじめて愛と憎しみを超えた本当の遇い方ができるのです。
正善寺からのお知らせ
8月27日(水)午後7時より 尼講
どうぞお参りください。
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