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2012年1月 4日 (水)

かあちゃんしぐのいやだ

地元のケーブルテレビを見ていると「かあちゃんしぐのいやだ」という映画が掛かっていた。

題名には何となく覚えがあるのだが、地元武生を舞台にしており、原作者は武生(越前市)在住の人なのだという。

武生西小学校(実際は武生第二中学)や武生の町並み(道の真ん中に水路があった)がふんだんに出てくるし、有馬稲子が福井弁を喋っている。

今から五〇年ほど前の映画で、その頃の記憶が私に定かにあるわけではないが、やたらと懐かしい気分になる。

丁寧なことに映画終了後は解説2人とレポーターが武生の町をめぐり、昔の武生の町を紹介する番組まである。(解説のお一人は高校時代の世界史の先生であった)

三年前、父と一緒にきたお寺で葬式をした。「とうちゃんが死んでも淋しくない……とうちゃんはいつでもぼくらのからだの中に住んでいるんだ」--良行は兄と一緒に母を助けて元気に生きぬく決心をした。(goo映画 解説あらすじ より)

映画の最後に近いシーンだけれど、お坊さんが読経し、家族3人がお参りしているところが出てくる。

亡くなった方が残った方の中に生き続けるという言い方は、ある意味よく使われる言い方かもしれない。

真宗では還相の回向(げんそうのえこう)という親鸞聖人がよくおつかいになったことばを思い浮かべる。

還はまた戻ってくるといった意味。

亡くなった方は、お浄土に生まれる(往相の回向)のだが、お浄土に行きっぱなしというわけでもない。仏として我々衆生を教え導くというお働きがある。(還相の回向)

よく亡くなった後「安らかにお眠りください」と言われるが、真宗では亡くなった方は安らかに眠るのではなく、衆生を教え導くという大切なお働きをされるということになる。

「体の中にいきている」かどうかは別として、仏としての働きにお遇いしている私たちは、決して亡くなった方と永遠の別れをしてしまったわけではない。

むしろ、おそばにおいでになり、私たちを導いてくださる存在となっているのだと思う。