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2012年3月11日 (日)

他のいのちの 結集の 塊が 私のからだ

震災から1年になります。

追悼の催しも多いようです。

何ができるわけでもないのですが、詩を紹介したいと思います。

欲望の記憶


2011年3月11日

東日本大震災

海面から 陸地へ 乗り上げ 暴走する 津波


家 樹木 動物 植物

車たちは ミニカーのように 軽々浮いて

ぶつかって 押しつぶされて 砕け

混ざり 遭って 流される

その中には 人の いのちも

(中略)

他のいのちの 結集の 塊が 私のからだ

生きるための 欲望が 記憶された 私のからだ

私を 生かすための 応援 真実の願いが


私のからだに 記憶 されている


その 呼び声が 

折り重なって 聞こえて 来る 繰る


呼び声を 感じつつ 歩き続ける 

欲望の 道を

息が 止まるまで

欲望の 記憶へと

よしいけ道さんのブログ「詩の散歩道」に掲載されている詩です。

全部引用するのは差し控えますので、よしいけ道さんのブログ(リンクが貼られています)でご確認ください。

大震災の悲惨さ・凄惨さは何度も報道され、語り尽くされていると言ってもいいかもしれません。

しかし、被災された方一人一人の体験や思いはその人固有のものであるのでしょう。

しかし、そちらの方面へのアプローチはいろいろなところからされているようにも見えます。

そこを「私」に振り向けているところにこの詩のすばらしさがあるように思います。

「私の欲望」「私のからだ」といったものへの転換がこの詩のいのちなのかもしれません。

そこから「真実の願い」に願われている私に気づき、呼び声を感じる。

かといって、欲望から離れることはできない私。

その私として生き続けていく凡夫の身である。

この場合「真実の願い」と欲望とは、不即不離のものなのでしょう。

震災の記憶とは、まさしく「私」の記憶として呼び起こされるべきものなのでしょう。

2011年6月27日 (月)

被災地支援呼び掛け 寺の役割(8)

まだに前シリーズを追っかけ中の「親鸞なう」フォローです。

被災地支援呼び掛け 寺の役割(8)」は専光寺の佐々本尚住職を紹介している。

親鸞なうの取材班はこの方のフットワークの軽さに感心し、新しい住職像をこの人に見ているようだ。

被災者支援ということで、「親鸞なう」は、本願寺派の活動紹介が多かったが、大谷派の活動もなかなか活発であったようだ。

被災者に門徒さんが多いということもあるのだろうが、本派大派の活動には、利他行の実践が感じられ、大いに感じ入るところ。

佐々本さんの活動に興味のある方は、「大谷派 ボランティアネットワーク福井」「愚案記」もどうぞ。

佐々本さんの記事、いろいろと思うところが多いが、一応このあたりで。

2011年5月 8日 (日)

涙をぬぐつて働かう

涙をぬぐつて働かう   三好達治

忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておかう

苦しい心は苦しいままにけれどもその心を今日は一たび寛がう

みんなで元氣をとりもどして涙をぬぐつて働かう



最も悪い運命の台風の眼はすぎ去つた

最も悪い熱病の時はすぎ去つた


すべての悪い時は今日はもう彼方に去つた

楽しい春の日はなほ地平に遠く


冬の日は暗い谷間をうなだれて歩みつづける

今日はまだわれらの暦は快適の季節に遠く

小鳥の歌は氷のかげに沈黙し

田野も霜にうら枯れて

空にはさびしい風の声が叫んでゐる



けれどもすでに

すべての悪い時は今日はもう彼方に去つた

かたい小さな草花の蕾は


地面の底のくら闇からしづかに生まれ出ようとする

かたくとざされた死と沈黙の氷の底から

希望は一心に働く者の呼声にこたへて

それは新しい帆布をかかげて

明日の水平線にあらはれる


ああその遠くからしづかに来るものを信じよう

みんなで一心につつましく心をあつめて信じよう

みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働かう


今年のはじめのこの苦しい日を

今年の終わりのもつと良い日に置き代へよう




宮本信子さんが紹介されている詩です。
三好達治の詩ですね。

仏教の大切な考え方の一つに「諸行無常」があります。

簡単に言うと、いつまでもそのまま続くものはないと。

忘れがたい悲しみも苦しい心もいつまでもそのまま続くものではありません。

そのときは悲しく辛くとも、移り変わっていくものなのです。

悲しさやつらさの中には希望の蕾がきっとあるのですね。

2009年12月28日 (月)

いのちの大きさ

アリ

アリを見ると

アリに たいして

なんとなく

もうしわけ ありません

みたいなことに なる


いのちの 大きさは

だれだって

おんなじなのに

こっちは そのいれものだけが

こんなに

ばかでっかくって・・・



まどみちおさんの詩は、あたりまえに思える人間の視点を揺さぶるところがあるようです。

「いのちの 大きさ」とは、すごい言葉の使い方だとは思いませんか?

2009年10月 6日 (火)

星とたんぽぽ

これも「心のしおり」掲載のもの。この頃は金子みすゞさんをたくさん読んで、感動していました。

みすゞを読み直してみようかな・・・と思う今日この頃です。

星とたんぽぽ

 春のくるまでかくれてる、

 つよいその根は眼 にみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、

 見えぬものでもあるんだよ。
 

 この詩「星とたんぽぽ」の作者金子みすずは今年生誕百年を迎えた「若き童謡詩人の巨星」と言われながら二十六歳でこの世を去った薄幸の人でした。しかし、その優れた感性は、通常では見えないところにまで及んでいます。
 私たちの命は、実に多くの人やものによって支えられています。しかし、そのことはあまり意識していません。私たちは自分の命を支える根に無自覚なままでいいのでしょうか? 
 みすずに深い理解を示す矢崎節夫氏は稲の根について書いています。(『金子みすずこころの宇宙』)それによれば、八十センチほどにのびた稲は三十メートルもの根を張るのだそうです。そして稲の根は地面の中で様々なものに出合い、その出合いを糧として稲が育っていったと矢崎氏は言います。
 私たちも多くの出会いを糧として、地面の中にしっかりと命の根を張っていきたいものです。

新聞表記ということもあって、「みすゞ」を「みすず」と書いています。

阿弥陀様のお働きは、直接目にできるものではありませんが、「見えぬけれどもあるんだよ

見えぬものでもあるんだよ」というとき、私たちは、阿弥陀様のお働きの実在を信じることができるのですね。

2009年6月27日 (土)

救い

浅田正作さんの詩を紹介しようと思います。

 救い

 難しいことなんか

 なんにもなかった

 たった一言の

 何でもない言葉が

 この胸に落ちれば

 それでよかったのだ

浅田さんは深い悩みの中にいたのでしょう。きっとお念仏を唱えながらも、迷いの闇から抜け出ることがずっとできなかった。

あるときお念仏が本当に素直に喜べたのでしょう。信心獲得の姿ですね。

そこから仏さまの広大無辺な世界が広がっていったのでしょう。

それが「救い」であったのだと気づかれた。

我々も「南無阿弥陀仏」を唱えながらも、信心をきちんと胸に抱いているかどうか。

そして、お念仏の持つ力に気づくところに回心があるのでしょうね。

「南無阿弥陀仏」

2009年6月19日 (金)

あてはずれ

川村妙慶さんがブログで浅田正作さんの詩を紹介しておられる。

なるほどと思わせる詩なので、ここでも紹介させていただく。

あてはずれ 
あてはずれ
あてはずれつづけて 
あてはずれてもいい 
大地に立つ

私たちの人生は、あてがはずれてばかり。

「何かいいことないか」というのが口癖になってしまう人も多いのでは?

「あてはずれてもいい 大地に立つ」

そこでは、きっと阿弥陀様が寄り添ってくださいますよ。

永代経のお知らせ

7月4日(土) 

日中 午前10時より 

    勤行 仏説阿弥陀経 説教 住職

逮夜 午後3時より

    勤行 仏説無量寿経 説教 川村妙慶師