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2010年11月21日 (日)

阿闍世

最近の私の関心は阿闍世へと向かっている。

大舎城の悲劇の主人公の一人で、父を殺し母を幽閉するという五逆の罪を犯してしまう。

この阿闍世が救われるというところに、親鸞聖人は関心を向けられていたようだ。

浄土三部経の一つ「仏説観無量寿経」は、大舎城の悲劇を取り上げるのだが、残念ながら阿闍世の救いは書かれていない。

韋提希にお念仏を勧める、韋提希が救われるというところまでだ。

お念仏によって救われるということであるから、浄土真宗の正意を伝えてはいるのだが、自分の罪によって悩み苦しむ阿闍世はどうなるのだろう。

親鸞聖人は教行信証ではかなりの量を阿闍世の救いに割いておられる。

都路惠子さんのご本でそこのあたりを学ばせていただいたが、CDで教行信証の朗読を結構聴かせていただいている。

都路さんのように、劇的に教行信証が理解できるようになったわけではないし、阿闍世に関する場面だけなので、全体が理解できたわけでは、もちろん無い。

しかし、何となく身体にしみてきたような(まだまだ中途半端ですが)感じがしてきている。

そんな折、「法語カレンダー随想集 今日のことば 2011」で、狐野やよいさんの文章を読んで、阿闍世の言葉に強く心を打たれた。

「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」(教行信証 信巻)

自分の恨みのために父や母を苦しめ、自分も罪に苦しむという体験を経た阿闍世の言葉として、この言葉は無上の回心の表明なのだろう。

うかつにも最初この言葉には、ちゃんと気づかなかった。

読み返しをして、涙が出るような気持ちになった。

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