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2011年3月21日 (月)

「お寺は何のためにあるのですか?」法蔵館

ちょっと気になる題の本を手に取った。

「お寺は何のためにあるのですか?」法蔵館

お寺はいったい何のためにあるのか。

本当に必要なのか。

というところを突きつけられるような問題提起が最近多いように感じる。

お寺も以前と同じような形のままでいることに対して、疑問に感じる人が多くなってきているのだろう。

宗教心、信仰心が薄くなったと嘆くだけでなく、お寺の存在意義を見直すことも必要ということだろう。

真宗のお寺は死者の追善供養をするためのものではなく、今生きている人のためのものだというあたりを、再確認させてくれる。

ちなみに著者は坊守さんで僧侶、結婚してお寺に入ってから真宗のことを学んだのだそうだ。

ブログもありますが、実は、私、この方のブログということを知らずに、面白いことを書いている坊守さんだな、と思って時々読んでおりました。著書の題も知っていたので、びっくりしました。

こういう感じの根源的な問題を分かりやすく書くのは、女性の視点から見ることが意味が深いように思われる。

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コメント

初めまして。
たまたまこちらのタイトルが目に入り飛んできました。

「お寺は何のためにあるのか?」

こういう疑問があること自体、心無い空虚な世の中になっているように思えます。。
お寺のあり方もあるとは思いますが、
元々大人達にお釈迦様の教えが浸透していないので、
大事な時期に子供達も知らないまま大人になってしまっています。

ブッダの教えが基本的にあれば、今問題になっているいじめや自殺や犯罪等も幾分かは回避されると思うのですが、教育機関自体が宗教的にとらえて取り入れようとされないので、ついにはお寺離れにもつながっていうように思います。
根本的な教育の在り方や環境を変えないことには、いい方向に進まないような気がします。
目先の目に見えることばかりにとらわれていては、実は間違いだらけの価値感の中で、大事なことを気づかされないままで人生を終わることになってしまいますよね。そしてそれがまた来世(次世代)につながり堂々巡りをしてしまいそうです。

一般的にもお寺のイメージは、お葬式や供養の方が濃いようで、本来僧侶が果たす使命の方が薄くなっているような気がします。
場所にもよるのかもしれませんが、最近は托鉢される姿も見なくなりましたし、この言葉自体、死語のようになっているような気もします。
お寺の門が無人で開放的でなかったり、どこか敷居が高いようなところがあったり、本当に衆生を救おうとされる僧侶がいらっしゃるのかどうか等々‥、
多分このようなことも、冒頭のような疑問につながっているように思えました。

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