受刑者と相対する(5) 最終章「教えと生きる」
親鸞なうフォローをしてみたい。
寶光(ほうこう)寺住職の櫻井智舟さんは、刑務官として受刑者と向き合った。
刑務官の仕事やそういう職の方が浄土真宗と向き合うということについて、私はなにも手がかりがない。
この方の在り方については、記事の文言を信じるしか手立てはないのだが、そこに綴られた刑務官としての在り方と、真宗僧侶としての在り方は、戸惑いを含みながらも、太い線で結ばれていると感じる。
「親鸞聖人なら、間違いなく、受刑者に対しても『それではダメだ、こうしなさい、もっと修業しろ』という上からの目線でなく、『お互いに罪を背負い、悩みを抱えた悪人だけど、ともに真宗の教えを聞いていこうや』と言われただろう」。
このことばは親鸞聖人の在り方をよく示しているように思う。
自分の内面にある悪や罪と向き合い、慚愧を感じるところに親鸞聖人の人間認識の大事な部分があるとすれば、矛盾を感じながら、道徳的、刑法的な意味での悪を犯したという悪や罪を持つ受刑者は、決して遠い存在ではなく、ある意味「親友」とさえ言えるのではないか。
「改心は、道徳や教訓、法律の域を超えて、自然に『感じる境地』から生まれる。すなわち『(改心を)努力で、せにゃならん』から『せずにおけない』にならないとできない。『自力』でなく『他力』を説く真宗の教えと通じる」
この言葉の重さをかみしめたい。
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