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2009年8月29日 (土)

27日尼講での法話

皆さんは今、お寺にいらっしゃる。

川村妙慶さんは、お寺という場所についてこう言っていらっしゃる。

◎お経の言葉に触れる(目)

◎読経をする。自分の発した声を自分の耳で聞く。鐘の響     きを聞く(耳)

◎本堂からお香やお花の香りが漂う(匂い)

◎読経は腹式呼吸をするので体が温まる。頭の活性化、法話で生きるための知恵をいただく (身)

◎なんといっても皆さんでわいわいしながらお茶やお菓子を楽しむ(舌)

お寺という場にいると言うことは、それだけで、五感を磨き、いきいきできると言うことなんですね。

それだけでもすばらしいことなのですが、お内陣の荘厳は、阿弥陀様のお浄土を表している。

それは、お家の仏壇も同じことです。

お寺に来て、仏様の前に座る、お内仏の前に座ると言うことは、実は、お浄土を感じることなのです。

そこで、お浄土と地獄を比べてみましょう。

これから二つの地獄とお浄土についてのお話をします。お浄土ではどうしているか考えてください。

ひとつめ。

お浄土の人が入る極楽湯と地獄の人が入る地獄湯は隣同士。広さも同じ。混み具合も同じくらい。

地獄湯では、「足を踏んだ」「水をかけた」等々争いが絶えません。

ところが極楽湯では、争いが全くなく、和気藹々とお風呂を楽しんでいる。

では、「極楽湯」では、皆さんどのように過ごしておられるのか。

ふたつめ。

お浄土と地獄では、食事をするとき、とっても長いお箸で食事をする。自分の口に食べ物を運ぶことができないような長さです。

地獄の人たちは、長いお箸をもてあまし、いっこうに食事ができない。ところがお浄土では、みんな食事を楽しんでいる。お浄土の人々はどのようにお箸を使っているのか。

答えはいかが?

ひとつめ。極楽湯の人は、輪になって、人の背中を流してあげるのです。これなら争いは起こりませんね。

ふたつめ。お浄土の人は、長い箸で、向かいの人に食べ物を食べさせてあげるのです。そうすれば、みんな楽しく食事を楽しむことができます。

地獄の人たちは、自分のことばかり考えている。つまり我を張っているから苦しむのですね。

お浄土の人たちは、他の人を利することを考えている。だから、自分も楽しくお浄土の生活を満喫できる。

仏教では、我にこだわってはいけないと教えます。我にこだわると苦しみを生むのです。

また、仏教は利他行を勧めます。他人を利することで、自分も幸せになれるのです。

きっと、私たちの多くは、知らぬ間に我を張り、他人のことをあまり考えない生活を送っているのではないでしょうか。

我へのこだわりをちょっと割り引いて、人のためを考えてあげる。

お寺の空間で、こういう気持ちになることも、お寺の意味なのではないでしょうか。

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