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2011年7月27日 (水)

小沢昭一が訪ねた能登の節談説教

CD「小沢昭一が訪ねた能登の節談説教」を聞いている。

節談説教について特に詳しいわけでもないで大したことを言えるわけではないが、節談説教をしてしまう小沢昭一さんの芸の広さにはびっくりする。

このCD節談を広く知らしめた功績があるCDだということ。

茂利宗玄師・広陵兼純師の説教がおさめられており、節と語りの渾然一体となったというか移り変わりというか、非常に微妙な味わいがある。

節談が教義をどれくらい正確に伝えているかという点については疑義を持つ向きもあるようだが、民衆に教えを伝えるという点において、一種芸能とも言える語りの妙味は一定の意義を果たしているのだと思う。

「布教大会」としてこういうものが催され、満堂の人が集まるのは、大きな信の力なのであろう。(ただ、能登の布教大会にピリオドが打たれた、と側聞した。一度でいいから、この大会にお遇いしたかったなあ、と思う)

ノスタルジーを感じさせるような能登の冬景色の中に立つ小沢さんの表紙(?)も味わい深い。

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コメント

節談はその芸能的な部分が嫌われ、現在の講義式の法話に転換されました。
今のお説教と節談のどちらが良いかという議論はナンセンスなので
するつもりはないですが、少なくとも現在の布教使さんに欠けているものが
節談説教には存在します。
今の落語家や講釈師のように、徒弟制度の中で師匠の芸を盗み、
自らのものとしていく、喉をからし、声をつぶし出来上がった説教は
まさに迫力と感動を伴うものだったことでしょう。
布教使さんは布教のプロでなければならない。
本願寺派には約3000名の布教使さんがいますが、
その中で本当に命がけの布教をされている方はいかほどのものなのか。
落語や講談を勉強し、伝えることを吸収しているのか。
原稿をちらちら見ながら、迫力も余韻もない布教をされている方が多いと思います。
節談の全てが素晴らしいとは思いませんが、学習せねばならないことがありますね。

大変僭越なことを申しました。

saihoujiさん、コメントありがとうございます。
節談説教の迫力とそれに伴う迫力は、説教者の鍛錬によってなるものなのでしょうね。
近代的とされる布教の形が取り落としがちになっているところなのかもしれません。
伝えるべきものがある、という布教者の意志が肝要なのかもしれません。

非常に考えさせられるところですね。

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