ご案内
明日(6月26日(日))浄徳寺さんの永代経です。
逮夜(午後3時より)の法話をさせていただくことになっています。(日中 午前10時)
よろしかったらお参りください。
翌日(6月27日(月))は、正善寺で尼講です。
尼講
6月27日(月) 午後7時より
正信偈のお勤め 法話 あとはお茶とおしゃべりと
どうぞ皆様お参りください。初の参加の方も歓迎です。
明日(6月26日(日))浄徳寺さんの永代経です。
逮夜(午後3時より)の法話をさせていただくことになっています。(日中 午前10時)
よろしかったらお参りください。
翌日(6月27日(月))は、正善寺で尼講です。
尼講
6月27日(月) 午後7時より
正信偈のお勤め 法話 あとはお茶とおしゃべりと
どうぞ皆様お参りください。初の参加の方も歓迎です。
「手塚治虫のブッダ展」どうしても見たくて、見てきました。
手塚治虫の「ブッダ」は、まんがですが、単なるブッダ伝ではなくて、壮大なドラマのなかに仏教のエッセンスを表現した名作と言ってよいでしょう。
当然ブッダ(お釈迦様)は登場しますが、ブッダの尊さ、仏教の教えを述べるにとどまるのではなく、登場人物が織りなすドラマ全体が「生命の尊さ」を私たちに伝えてくれます。
「ブッダ」の原画と仏像でブッダの生涯をたどるというこの企画、一見の価値があります。
6/26迄と、期限が残り少ないですから、ご覧になりたい方は、是非。おすすめです。
連動して、「ブッダ」の映画が公開されています。
先にも述べましたように、ブッダ=釈迦も、一つの大きな物語を紡ぎ出すのですが、チャプラの物語も、ブッダの物語とあるときは別々にあるときは絡み合いながら展開していきます。
この二つの物語の絡み方が実にすばらしいのです。
二つの物語が、一つの物語となり、感動を呼び起こし、「生命の尊さ」を訴えます。
必見の映画と言えるのではないでしょうか。
福井近辺では、7/1までという映画館が多いようです。(映画館によっていろいろのようですが…)
興味のある方は、足をお運びください。
ちょっとばらしますと、ブッダの出家でこの映画は終わりですが、原作は続きがあります。
続編も?
昨日(19日)の[福井新聞]は[親鸞なう]が載りました。
特集として、山元派の御遠忌の様子も紹介されました。
よろしかったらご覧ください。
三門徒派の写真と山元派の写真が区別がつきにくいようです。
記事の右側の写真群が山元派です。
野村さんの写真があるのは、三門徒派、ジャズの演奏の写真があるのが山元派です。
またまた遅ればせの「親鸞なう」フォローということで。
この見出しは、ちょっと?
お寺は税金を納めなくていい、というふうに思っている方もいるが誤解だ。
詳しくは記事を見ていただきたいが、個人の収入には税金もかかるし、有料の事業をすれば、(税制上の優遇はあっても)税金がかかる。
たぶんこの記事の焦点は、寺の収入だけでは苦しいところが多いということだ。
記事の冒頭、今川雅照徳願寺住職は、「年金がなかったならば兼職せざるを得ない」と語る。
福井の真宗寺院は、規模の小さいところが多く、住職は兼職の方が多い。
「一概には言えないが、住職が兼職せずに生活するためには200~250軒の門徒戸数が必要」と関係者が語るが、300軒以上ないと、という話も聞く。
お寺の事情によって変わるところだが(お布施の額や、維持管理費がどれくらいかかるか、布教活動による収入がどれくらいか 等々 時折他のお寺のことを聞き、違いにびっくり仰天することすらある)兼職なしで住職や家族が生活するのは厳しいというところ。
そういうところから、寺の経営が苦難の時期を迎えるとし、その打開を法話の力、教化活動に求める。
最後のところを紹介しよう。
今川住職は「今やらなければならないのは教化活動だ」と強調する。「住職は勉強しながら、門徒との関係をつくっていかなければならない。現代の住職はカウンセラーにならなければ。悩みを打ち明けてもらうようになるには時間はかかると思うが、努力するしかない」。住職の務めに専心することが新たな門徒獲得につながると考える。
ほぼ、私自身も認識が共通していると言ってよいだろう。
かといって、住職に専念するという在り方を選ぶには、障害も多いし、記者子の言うような門徒獲得だけの問題に収斂されるものでもないだろうと思う。
新聞としての切り口からそういう言い方になることも理解できるが、問題をいたずらに単純化してはいけない。
取り上げられた三門徒派の法話大会、どうだったのでしょうね。
取り組みのコンセプトとしては、◎と思います。
これもずいぶん前の『親鸞なう』フォローですね。
「新たな坊守像」
まず坊守とは何か?
坊守とは本来、寺の番をする人のことを言うが、浄土真宗では古くから妻帯が認められていたこともあり、住職の妻のことをこう呼んできた。
一般的には、お寺の奥さん、という感じだろう。
ここには、住職は外に出て、坊守はうちで寺を守るものという意識が伺える。
古い男女の役割意識からすると、ある意味当然の意識なのだろうが、外へという意識を女性が持つのは、時代の要請と言ってよいだろう。
大谷派では2008年に寺院教会条例を改正し、坊守の呼び名を女性住職の夫にも適用することにした。また、教えを広めることに坊守が主体的にかかわるようにも定めた。男性中心だった寺院運営に男女共同参画の流れが広がっている。
大谷派の条例改正のことは詳しくは知らないが、大派には実際、女性が住職・男性が坊守、というお寺が何軒かあるのだそうだ。
これを聞いたときには、自分の古い男女意識をちょっとさぶられた。お寺にもジェンダーがあったのですね。(体質的に、古いですからね…)
お西の大遠忌には、法要の出仕が全員女性僧侶という日があったようだ。
女性僧侶と聞くだけで、意外な感じを持つ人がまだまだ多いと思うが、活躍の場をどんどん広げている、と何となく感じている。
(今は坊守の話ですね。でも、坊守さんで僧侶資格を持っている人はけっこう多いのです。)
「門徒さんに何か尋ねられたとき、『住職に聞かないと分かりません』では坊守失格」と若手坊守に諭す織田紀江さん。
「住職に聞かないと分かりません」ということばは、よく使われるが、よく考えると恐ろしいことばなのかもしれない。
坊守の意識のありようが如実に表れ、寺との関わり方があらわになっている。
◎何でもあす19日から「親鸞なう」が、新シリーズとして掲載されるようです。
またまた遅ればせの「親鸞なう」フォローです。
「住職の仕事」
お寺の朝礼というのが、取材班には新鮮だった様子。
本覚寺さんの朝礼や住職と法務員の仕事について紹介されている。
大きいお寺には朝礼があったり、打ち合わせがあったり、人が多いと会社組織のようになるのかもしれない。
門徒さんにあわせて、住職の仕事もありようが変わるというレポートのようだ。
住職って、何やるの?というような問を投げてほしい気がする。
すっごく前の記事になってしまいましたが、久しぶりの「親鸞なう」フォローを。
「寺の役割」今回は「寺の役割」というより「誰のもの」がメインになっているような感じがする。
真宗寺院は「門徒のもの」といわれる。記事のなかにもあるように、住職も門徒のなかの一人というのが、真宗での位置づけだと言ってよいのだろう。
お寺に住む門徒が住職だという言い方もある。
「真宗の寺は、門徒たちが集まって仏法を聞く場。住職は寺を預かり住まわせてもらっているが、門徒と同じ立場だ」熊谷純成住職のことばは、そこのところを語っている。
寺院の建設、改修にも、たいていの場合門徒さんに負担をお願いすることになる。
もちろんお金のかかることをなぜしなければならないのかという声も出て当然だという気がする。
理解を得るのも大変だ。
お寺を立派に と思う気持ちもあれば、負担をかけたくない、負担をしたくない、という気持ちもあるだろう。
そこには、門徒さんにも「寺は門徒のもの」という意識を持っていただくことが大切だし、住職にもこの意識は欠かせないのだと思う。
京都の知人からのお知らせに驚いた。
何でも、北海道の知り合いの方が山元派の御遠忌法要に参拝されていたという。
今回、ふだんあまり行き来のない九州のお寺さんからの参拝があった。(山元派のお寺)
そのことも喜びであったが、山元派の寺もない北海道からの参拝があったとは、思いもよらなかった。
御遠忌のありがたいご縁をよろこぶばかりである。
御遠忌が終わり、一つの区切りがつきました。
正善寺の行事のご案内をしたいと思います。
尼講
6月27日(月) 午後7時より
正信偈のお勤め 法話 そのあとはお茶とお菓子とおしゃべり
永代経
7月3日(日) 日中 午前10時より 逮夜 午後3時より
有縁の皆様には、近日中に永代経のご案内をさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
真宗山元派本山證誠寺での宗祖親鸞聖人750回御遠忌が、無事終了いたしました。
真宗十派の中で一番小さな派の御遠忌で、他派の御遠忌と比べれば見劣りするところが多いものと思いますが、大きな法要を無事勤められた喜びをみんなで分かち合うことができました。
御同行御同朋と親鸞聖人はおっしゃいましたが、750回御遠忌は、まさしく御同行御同朋の繋がりのなかで行われたものであったと、不思議なご縁に感謝する次第です。
宗務長様参勤・宗主様参勤は、他派の宗務長・宗主様をお迎えしての法要で、一番心を砕き準備を重ねたところですが、多数の皆様の参詣もいただき、無事勤め上げることができたのは大きな喜びであります。
また、仏教讃歌の夕べも、お歌で仏法をお伝えいただき、ありがたい催しでありました。
ジャズで聞く法語朗読も音楽のすばらしさはもちろん、朗読という声の表現が、これほど心を打つものであるかと、認識を新たにさせていただきました。
延塚知道師のご法話は、残念ながら少しずつしか聴聞することができませんでしたが、たくさんの方が仏法のすばらしさ・聴聞の喜びを感じられたことでした。
何人もの方から、御聴聞の感動をお伝えいただき、よいご縁を持たせていただいたと慶んでおります。
この御遠忌法要が皆様に親鸞聖人のみ教えをお伝えする機縁となったことを喜びたいと存じます。