2013年9月 7日 (土)

お寺の教科書

『お寺の教科書 未来の住職塾が開くこれからのお寺の100年』(松本紹圭・井出悦郎)を読む。

未来の住職塾での講義がもとになっている本であるが、エッセンスがいかんなく詰め込まれていると言ってよいだろう。

これからのお寺に求められるのは「みんなの寺」としてのお寺。

この本が提示するお寺像は、立場がどうであれ、一考される価値があるものだと感じる。

「開かれたお寺づくり」だとか「お寺の可能性を引き出す」といった帯の言葉にそのあたりは言い表されているものと思われる。

ただ、このような言葉は、単に新しいものを求めているだけの言葉ではなく、お寺の持ついろいろな価値をもとに、その価値を埋もれさせるのではなく、みんなに広く開こうとするものである。

「経営」といった言葉も散見されるが、「経営」とはそもそも仏教語であり、「人生をどう営むか」「自分をどう活かすか」といった意味合いであって、お金儲けを意味するものではない。お寺の金儲けとは無縁の本であることは断っておきたい。

この本は「お寺の教科書」と銘打ってはいるが、こうすればお寺がうまくいくとか、お寺はこうしなければならないといったことが書いてあるのではなく、あくまでもみんなの中でお寺がいかにその可能性を発揮するか、そのための下準備の仕方を伝えてくれる本であると思う。

お寺のあり方、檀信徒のあり方、お寺は千差万別であり、問われるべきはそのお寺の使命やお寺をとりまく人の志だと思われる。

そこの所をとても刺激してくれる本。

できれば、お寺を取り巻く人たちと一緒に読みたいものである。

正善寺からのお知らせ

彼岸会 9月22日(日) 午前10時より

どうぞお参りください。

2013年9月 6日 (金)

ロココカフェ

9月1日(日)は京都に赴き、レストランキエフさんで「ロココカフェ」川村妙慶さんのお話。

詳しくは妙慶さんご自身のブログでどうぞ。(9月2日)

台風の影響もあってか、参加者は少なめであったけれど、その分アットホームな感じであった。

ご自身のブログでも書かれていたが、テーマを間違えておられ、急遽話の組み立てを変えられたそう。

それにもかかわらず、深いお話をお聞かせいただいた。

正善寺からのお知らせ

彼岸会 9月22日(日) 午前10時より

どうぞお参りください。

2013年9月 1日 (日)

難中之難無過斯

誠照寺さんで夏期講習会の御法話を聴聞。

講師は浅野玄誠 師(同朋大学学長)。

あるシンポジウムの司会者として浅野師のお話は聞いたことがあったが、今回は御講師としてお話を聞かせていただく。

たっぷりの声量でわかりやすく取り次いでいただく浅野師のお話は、非常に明快でなおかつ深いところにお導きくださる。日常の話やユーモアを取り混ぜながらのお話に、むりなく絶対他力の教えに導いていただいたと感じられた。

懐かしい人とも顔を合わせることができ、ご縁のありがたさもたくさんいただく。

殯の森を観る

昨日は長慶寺さんで「殯の森」を観る。

実はこの映画、釈徹宗先生が丸岡の講演でいい映画だとご紹介され、映画を観ていなかった私がこの機会に観てみたいとリクエストしたもの。

いろいろな見方のできる映画であり、参加者も最初は実際の介護に携わる方、僧侶のかたもおり、プロの目から見て、突っ込むという展開であったが、そのうち物語のファンタジー性や民俗学的解釈にまで話が及ぶ。

この映画は、一言で言えば,葬送の物語であり、特に送る側の物語であるといってよいだろう。

死者を悼み、死を受け入れるためには、本来ならある一定の時間の長さと、受け入れる人が、迷うという過程が必要なのではないか。

現代の葬儀は非常に簡略化され、そういうことが充分になされていなのかもしれない。

しげきと真千子がさまよった森は,まさに自分の中で死を受け入れる過程であったのではないか。

また、森の異界性も指摘された。

日常では感じることのできない、異界としての森。

車の脱輪。しげきを見失う。しげきに導かれるようにして森に分け入る真千子。

しげきが妻の墓を求め、死を受け入れる過程に追随しつつ、真千子も子供の死を森をさまようことで受け入れていく。

儀礼としてではなく、一人の人間の死の受容の過程の物語であったのではないか。

そしてそこには現代人が死を覆い隠し、死の受容をないがしろにしてきたのとは対局の世界が繰り広げられていたのではなかったろうか。

2013年8月27日 (火)

尼講

尼講は無事終了。

御法話では、東別院の暁の人生講座で教えていただいた『いのちのまつり 「ヌチヌグスージ」』(作 草場一壽 絵 平安座資尚)を紹介しつつ、いのちと阿弥陀様の話を。

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次回は9月22日(日)午前10時より 彼岸会 として尼講を行います。

どうぞお参りください。





 

2013年8月26日 (月)

尼講

尼講のお知らせです。

8月27日(火) 午後7時より

正信偈のおつとめ 法話

2013年8月17日 (土)

お盆

お盆の期間が終わりました。

皆様どんなお盆をお過ごしになったでしょうか。

正善寺では14日15日にお盆参りとなります。

7日に盂蘭盆会をしておりますので、お同行のうち、以前からお盆にお参りをしていたり、お参りの依頼があったお宅でお参りをしたり、ということになっております。

特に15日は一年で一番多くのお宅にお邪魔する日となります。

たぶんお念仏を唱える数も一年のうち、一番多い日であろうと思います。

ちょっと疲れる日でもありますが、ご縁のありがたさをたくさん感じることのできる日でもあります。

南無阿弥陀仏

2013年8月15日 (木)

本覚寺御堂コンサート

本覚寺さんの御堂コンサートに行く。

10年を超える歴史を持つコンサート。

毎年ご出演の金剛さんたちのJAZZは、もちろんすばらしく、今年も満喫。

今年は第一部で小馬崎達也&パンゲアの演奏が。

これが何とも東洋的な音楽で、お寺の音楽という感じであった。

小馬崎さんは主にギターを持っておいでだが、久乗編鐘という楽器の演奏者でもある。

お鈴がたくさんという感じの楽器だが、何ともいえない響きである。

お琴と篠笛もよかったし、パーカッシャン奏者の操る楽器の多彩さも興味深かった。

昭和三〇年代四〇年代に活躍したある物もパーカッションとしていい音色を出していた。

声明と合わせたり、お寺で演奏することも多いということだったが、納得の響きである。

盛りだくさんのプログラムで、楽しいお寺での夜のひとときであった。

金剛さんのHP http://www.congo-sax.com/

小馬崎さんのHP http://www.mt8.ne.jp/~pangaea/

2013年8月14日 (水)

本覚寺お御堂コンサート

転載ですが,今日、こういう催しが山元派のお寺であります。

2013年8月14日 福井県福井市 本覚寺お御堂コンサート
本覚寺お御堂コンサート
開演 19:00

第1部 小馬崎達也&パンゲア
小馬崎達也(ギター、久乗編鐘)、仲林利恵 (篠笛、能管、箏・十三弦、十七弦)、
    吉口克彰 (琉水鉦、percussion)、佐藤美穂 (Contorabass)、手塚正人 (Bass guitar)

第2部  金剛督(Sax)、林あけみ(Pf)、ニール・ストルネーカー(Tp)、
    角田隆太(Bass)、角田健(Dr)、吉田沙良(Vo)、 香高みゆき(Sax)、柾本征也(Pf)

    問合せ:本覚寺(浄土真宗山元派)
    〒910ー3645 福井県福井市笹谷町64-27
TEL 0776(98)3140

興味のある方、ご都合のつく方はどうぞ。

お盆

お盆です。お墓参りに来られる方が、お寺にお参りされます。

寺報に載せた「盂蘭盆」の説明を載せてみます。

盂蘭盆について

  お盆の法会は「盂蘭盆会」といわれます。「盂蘭盆経」のお話が、その由来だといわれています。それはこのようなお話です。

 ある時、神通(じんずう)第(だい)一(いち)の仏弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)が、餓鬼道(がきどう)に堕ちていた母親を神通力で見つけました。
 なんとか母親を救おうとしますが、母親に食べ物を差し出すと、みんな炎となってしまいます。救うどころか、逆に母を苦しめてしまいます。

 そこでお釈迦さまに救いを請いますと、七月十五日(旧暦)、雨期の安居(あんご)(勉強会)を終えた後、修行をしていた僧侶たちに、飲食物の供養をするように言われました。これを実行したところ、餓鬼道で苦しむ母親を救うことができたのです。

 《この説法は、何を表しているのでしょうか?》

 ここで大事な点は、修行して神通力を得た目連ほどのお方でも、餓鬼道の母に食べ物を施すことも、餓鬼道から救うこともできなかったということです。
 お釈迦様がおっしゃるとおり、修行僧たちに供養することで、救われたということです。

 供養とは、三宝(さんぽう)〔仏、法、僧〕への敬いの心を形で、表すことです。

 母が救われたのは、目連が三宝に供養する姿を通して、母がはじめて三宝の貴さに気づいたからです。

 このお話は、三宝こそ帰依(きえ)すべきものであるという仏、法、僧の三宝の尊厳

性を示しています。(「三帰依文(さんきえもん)」をご覧ください。(「同朋勤行集」p1)
 また、目連尊者でさえ母親を救うことができなかったということは、結局、物では人は救えないということも示しています。
 物では人は救えないとは、どういうことでしょうか。
 人の心を開き、心境を転換させるのは、物ではなくて、仏の説かれた法(真理)だということです。
 法に帰依し、真実の道理に心開かれたとき、はじめて我欲(がよく)に翻弄される餓鬼でなくなります

 そこで、救われたというのです。
 この点が欠落すると、仏教でなくなってしまいます。
 お経に説かれた内容の表面だけをとらえ、しかも餓鬼を怨霊とみなし、それを救うために供物を施せばいいと考えますと、仏教とは関係ない怨霊信仰とし
ての「施餓鬼(せがき)」になってしまいます。
 一般的なお盆といえば、精霊の送り迎えなど、ほとんどが霊祭りの形態をとっています。

 浄土真宗のお盆は、一般の先祖供養とは違うのです。

 浄土真宗の み教えに生きた人びと(ご先祖)は、お盆の時だけ帰ってきて子孫の供養をうけるのではありません。
 ご先祖は、阿弥陀如来の本願力によって、さとりの世界であるお浄土に生まれ、常に私たちを見護り導いてくださっています。(往相の回向・還相の回向)
 亡くなった方も、私たちも、みんな阿弥陀様のお浄土で共に生きているのです。(お浄土は「倶会一処」の世界です。)
 生と死を包んで一切を照らしてくださる阿弥陀様を念ずることを通して、はじめて私たちは亡くなった人達との共通の場(=「倶会一処」)が与えられていることに気がつきます。
 そういうこの世を超えた領域の確認ができるのが、お念仏の世界です。
 先祖との本当の心の交流は、阿弥陀様を介さないとできません。

 亡くなった方と阿弥陀様を介してお遇(あ)いするとき、はじめて愛と憎しみを超えた本当の遇い方ができるのです。

阿弥陀様が第一です。

お墓にお参りされたときには、本堂にお入りになり、阿弥陀様にも手を合わせていただきたく存じます。

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