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2011年7月

2011年7月12日 (火)

救われる悪人とは(2) 最終章「教えと生きる」

親鸞聖人のおっしゃる「悪人」は、一般に使われる道徳的な見地からの「悪人」もしくは「悪」とは違う。そういうあたりに「悪人正機」が誤解されたり、理解のしにくさがあるのだが、「親鸞なう」はこのあたりのことを考える。

救われる悪人とは

本文では、ひろさちやさんと木越康さんの考えを紹介している。

碩学の2人のおっしゃること、十分納得のいくものだと思うので、くわしくは「親鸞なう」を。

興味深く読んだのはこういうところ。

親鸞ももちろん自らを「悪人」と語った。ただ、その際「深い『懺悔(さんげ)』とセットで言及されている」。「懺悔」とは「恥じる心」。親鸞が指す「悪人」とは「己の自己中心さを恥じる心、いわば『自分は愚かで浅はかな存在』だと分かっている人」なのだ。(略)

「往生をとぐ」という一節は「救われる」などと訳されるが、木越さんは「『救い』は、気持ちよくなったり楽になったりすることでなく、『自他共に傷つけず清らかに生きること。あるいはその世界』」と強調する。

 そのような生き方を求める際に大事なのが、自分がたくさんの欲望を持ち合わせた凡夫であることを自覚する「恥じる心」であるからこそ、「悪人」の方が「善人」より「救い」に近いのだ。

「恥じる心」の指摘がとても興味深い。

聖人は「懺悔(さんげ)」や「慚愧(ざんぎ)」というお言葉をお使いだが、どちらも自分の身を顧みて「恥じる」ところからの出発点を示しているのだろう。

自己を透徹して見るというところから親鸞聖人の教えは始まるような気がする。

2011年7月11日 (月)

他力本願 誰に頼る?(1) 最終章「教えと生きる」

やっと最終章に追いつきました。新聞の「親鸞なう」最終章は終了していますが…

他力本願 誰に頼る?

他力本願の意味が、真宗での使い方(意味)と一般に使われる意味と違いがあるというのはよくいわれるところ。

そこのところのひろさちやさんの説明は分かりやすい。取材班も、事前の勉強怠りなく、というところなのだろう。

写真の下に小さく「他力本願よりも本願他力と言った方がいい。その使い方の方が親鸞聖人に合っている」というひろさんの考えが示されている。

理由が十分には書かれてないうらみがあるが、私も「本願他力」をいう言い方の方を好んで使っている。

他力を本願としているのではなくて、本願は他力(阿弥陀様のお働き)だと親鸞聖人はお伝えになっていると思うから。

蜘蛛の糸のたとえは面白くよく分かると思います。

私があれやこれや言うより、記事を読んでいただく方が良いかと思いますので、このあたりで…

意識改革 寺の役割(10)

「親鸞なう」フォローをしてみよう。ずいぶんと旧聞に属するところだが…

意識改革

お寺や僧侶の意識改革の必要性は、認めざるを得ないところだと感じる。

「住職は『サービス業』」という副題が表すように、門徒の方に対するサービスを考えなくてはならない状況であることはたしかだし、そういう意識は必要だと思う。

お手次のお寺を変えたという御門徒の紹介があるが、そういう意識の必要性を感じさせる事例だ。

ニーズではなくウォンツに答える。とある。

ちょっとこのウォンツには抵抗がある。

きっと経営理論などで使われる用語なのであろうが、仏教にはあまり持ち込んでほしくないと感じる。

ウォンツとは訳せば「欲」なのだろう。

「小欲知足」を教える仏教からすると、ウォンツに答えるという在り方には矛盾を感じざるを得ない。

欲望に従って増大してきた資本主義の罪の部分をすでに私たちは知っているのだから。

そこにある問題意識は共有するべきものだと思うので、もうちょっと仏教にかなう用語を使っていただきたいと思う。

「ホスピタリティ」なんていかが?

最近は観光業界の用語みたいな感じもするが、少し中身を変えて寺院経営は「ホスピタリティ・ビジネス」と言えるんじゃないかな??

戯言ですが、ホスピタリティあふれるお寺のほうが、ウォンツに答えるお寺よりも、

お寺らしいとおもいますが・・・

どっちも、どっち。

他の方のブログ紹介だが、この話には、ヒザを打ちたくなる感じ。

英月さんのブログには、「どっちも、どっち」というお話が。

花泥棒のお話だが、親鸞聖人のお言葉「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(「歎異抄」)が、身近なところの出来事から感得される。

この方、仏光寺派の布教使についこの間おなりになったようだ。

むずかしいところを、上手にお伝えになる、英月さんのブログは面白い。

私も歎異抄のこの段のお話をしたことがあるが、機縁さえあれば千人殺すこともある、この身なのだ、と言ったところ、「人は殺さんわ」と言われ、二の句が継げなくなったことがある。

勉強になった。

2011年7月10日 (日)

佛性寺さんの永代経

佛性寺さんの永代経が終了いたしました。

「同朋勤行集」も皆様のところに。散華もみなさんのお手に届きました。

ご法話では、三浦明利さんの「ありがとう」を聴いていただき、その歌詞から真宗の肝要は信心を得ること。

信心は、阿弥陀様から差し向けられたものであり、そのことに気づくことが大切である。

そして、信心を得た上でのお念仏は、報恩感謝のお念仏となること。

そんなふうに話をさせていただきました。

とても暑い日で、お話を聞いていただくのも大変なことでしたが、阿弥陀様の御心をお取り次ぎできたでしょうか?

本山護持金集金

本日、年番さんが本山護持金を集めに伺います。

よろしくお願いいたします。

2011年7月 9日 (土)

門徒の思い 寺の役割(9)

遅れている上に、見事に滞っている「親鸞なう」フォローを久しぶりに。

門徒の思い

真宗の教えを継承する人が少なくなっている。

そういう危機感が門徒さんのなかにもある。

そこを、自分には関係ないと通り過ぎるか、継承すべきと働きかけをするか。

門徒たちが自主的に始めた聴聞会「お浚(さら)い講」をまず紹介する。

あまり体系的に宗学やお聖教を学んだことがない私には、こういう学習会形式の集まりはよく分からないが、参加の門徒さんは、非常に熱心なようだ。

教えを求める真剣さ、大切なことだと思う。

「振り向けば、(教えの)バトンの受け手が少なくなっていた。今の危機的状況をどうすべきか、自らに問い掛ける意味があった」と言うのは、山田清人さん。

寺の配置や学習会の開催を提言していらっしゃるようだ。

寺の配置について、統廃合については、すぐにできるものではないと思うが、ある程度視野に入れておかなければならないことだと思う。

山田さんは「近くて便利な、コンビニ感覚で参加できる真宗の学習会が必要だ」と呼び掛けている。

お寺の数が、コンビニより多いのだそうだ。(注)

門を閉ざすのではなく、気軽に来ていただける場所。

そういうのが理想だと思う。

(注)

山田清人さんから、「親鸞なう」で、山田さんはこのようなことを述べていないとご指摘がありました。山田さんによれば、本願寺派寺院10279ケ寺、コンビニ上位5社 37919店舗だそうです。

 この部分は、私の感想の部分で、ある御講師のお話やウェブ上で見たものを元にしており、全宗派のお寺の数として述べています。統計上の確認をしているわけではないので、間違いであるなら、ご指摘いただければ幸いです。

山田清人さんが「親鸞なう」でおっしゃっているわけではありませんので、ご了解くださいますようお願いいたします。尚、記事にリンクをしてありますので、山田さんのご発言をご参照ください。

山田さんのご指摘には、深く感謝申し上げます。

佛性寺さんの永代経

明日は佛性寺さんの永代経です。

逮夜(午後3時から)お勤めの後、法話をさせていただきます。

御聴聞いただくと嬉しいです。

2011年7月 7日 (木)

ありがとう~私を包むすべてに~

表題は三浦明利さんのメジャーデビュー曲。

7月6日発売された。

早速聴いてみた。

「ありがとう~私を包むすべてに~」は、インディーズ版(「ありがとう」という題で)でも出ているのだが、歌詞の改変があり、より思いが凝縮されている感じがする。

副題の「私を包むものすべてに」が、三浦さんの思いをよく表している。

OMAGATOKIでは「話題の“美しすぎる住職”がメジャーデビュー!! 」と題して、三浦さんのCDを取り上げているが、そこから一部引用。

楽曲についての本人コメント「ありがとう~私を包むすべてに~」
私はこれまで、自分の力だけでここまでやってきたと思い込んでしまっていました。しかし、住職となり仏教と出会い、人のぬくもりに触れる中で、「そうではなかった」と気付かされたのです。今の私が在る事は、私の力ではなく、これまで応援し、支え、育ててくれた多くの方々のおかげであったのです。そして、ありがとうの言葉も伝えて来なかった私自身の有り様に気付かされました。そして、今、ありがとうを歌いたいのです。私を包むすべてにありがとうを伝えたいのです。日本中に響け「ありがとう!」

いいコメントだと思う。仏教を知ったところからの気づきをよく表現している。

こういう思いを知った上で、三浦さんの歌声を楽しみたい。

PVはこちら

綾瀬里緒さんがお出になっているとか。三浦さんは、歌っている方です。

三浦さんのホームページはこちら。デビューにあわせて、新しく、より美しくなりました。

CDのウラには色衣五条姿、ライナーノーツには色衣七条姿の写真が。

「美しすぎる住職」というのも、納得される凜とした気品ある美しさです。

2011年7月 4日 (月)

永代経 雑感

永代経が終わって、いろいろと思うこと。

お寺の行事のために、年番さんが朝早くから用意をしてくださる。

行事のたびにしていただくことではあるが、皆様の協力があってこそ、正善寺の行事が滞りなく進むのだと、改めて感謝。

お寺に来る人が少ないので、仏事を減らすというお寺もあると聞くが、お寺はご縁を結ぶ場であり、こういうふうにご縁が結ばれていることは、正善寺も何とかお寺をやっているな、と思う。

お参りの方が、いろいろと思いを直接伝えていただいて、感謝。

挨拶の際はこうした方がよいとか。

日中・逮夜にかえて、日中にお参りが多く、逮夜のお参りが少なくなった。

他のお寺に出勤していただくのは逮夜だが、日中に変えてはどうか。とか。

ご意見に従うかどうかは、検討が必要だが、(仏事としては、日中より逮夜の方が重いはずなので)よりよい方向を提案していただけることは、非常にありがたいことである。

ご法話の前に、「わかりやすい話でないとあかん」と言ってくださる方もあった。

それに答えられたかどうか、定かではないが、それでお伝えしようというこちらの気持ちが定まった。

お寺は、多くの人に支えられているのだなぁ。

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