お内仏報恩講
お内仏の報恩講を諸般の事情から延期しておりましたが、次のように行いたいと存じます。
1月28日(土) 午後7時より 内仏間にて
正信偈のお勤め 御伝鈔拝読
どうぞお参りください。
お内仏の報恩講を諸般の事情から延期しておりましたが、次のように行いたいと存じます。
1月28日(土) 午後7時より 内仏間にて
正信偈のお勤め 御伝鈔拝読
どうぞお参りください。
心を弘誓の仏地に樹て(こころをぐぜいのぶっちにたて)
(浄土文類聚抄」親鸞聖人)
川村妙慶さんの年賀状にこの言葉があり、先日この言葉に関するお話をお聴きする機会があった。
心というのは大切なものだが、実に頼りない面を持っている。
その時と場合によって、あっちに転がりこっちに転がるというのが、心の実態なのかもしれない。
人間の心とは、これほど心許ない、フラフラと動くものなのだが、阿弥陀様のお誓い(弘誓)は、実にしっかりとした定まったものである。
そのような仏地に心を樹立しよう。
煩悩具足のフラフラと心が動く私であるけれど、阿弥陀様のお誓いを大地として、しっかりと足元を固め心を定めよう。
そういうことをできているのだろうかと、自分の身を振り返った次第。
川村妙慶さんの新刊が今月下旬に出るそうです。
「もしもあなたが、あと1ねんのいのちだとしたら」
川村 妙慶 PHP研究所
1,300円+税
楽しみです。
例年この時期にお内仏の報恩講をしております。
今年は諸般の事情により、少し時期を後にさせていただきます。
日時が決まりましたら、またお知らせいたしますので、よろしくお願いいたします。
今日は鏡餅と「證誠」をお分けいたしました。
村国周辺は年番さん、その他の地域を私が配りました。
越前市や福井市のお同行の元に届けるのですが、ほぼ一日がかり。
ラジオでかがみには二つの字があると。
一つは鏡。うつす道具のこと。
もうひとつは鑑。これは手本といった意味。
「経教は鏡なり」という善導大師のおことばがありますが、お経が私たちの有り様をうつすと行ったところでしょうか。
お経は手本と言うよりは私たちの有り様を知らしめてくれる鏡なのでしょう。
地元のケーブルテレビを見ていると「かあちゃんしぐのいやだ」という映画が掛かっていた。
題名には何となく覚えがあるのだが、地元武生を舞台にしており、原作者は武生(越前市)在住の人なのだという。
武生西小学校(実際は武生第二中学)や武生の町並み(道の真ん中に水路があった)がふんだんに出てくるし、有馬稲子が福井弁を喋っている。
今から五〇年ほど前の映画で、その頃の記憶が私に定かにあるわけではないが、やたらと懐かしい気分になる。
丁寧なことに映画終了後は解説2人とレポーターが武生の町をめぐり、昔の武生の町を紹介する番組まである。(解説のお一人は高校時代の世界史の先生であった)
三年前、父と一緒にきたお寺で葬式をした。「とうちゃんが死んでも淋しくない……とうちゃんはいつでもぼくらのからだの中に住んでいるんだ」--良行は兄と一緒に母を助けて元気に生きぬく決心をした。(goo映画 解説あらすじ より)
映画の最後に近いシーンだけれど、お坊さんが読経し、家族3人がお参りしているところが出てくる。
亡くなった方が残った方の中に生き続けるという言い方は、ある意味よく使われる言い方かもしれない。
真宗では還相の回向(げんそうのえこう)という親鸞聖人がよくおつかいになったことばを思い浮かべる。
還はまた戻ってくるといった意味。
亡くなった方は、お浄土に生まれる(往相の回向)のだが、お浄土に行きっぱなしというわけでもない。仏として我々衆生を教え導くというお働きがある。(還相の回向)
よく亡くなった後「安らかにお眠りください」と言われるが、真宗では亡くなった方は安らかに眠るのではなく、衆生を教え導くという大切なお働きをされるということになる。
「体の中にいきている」かどうかは別として、仏としての働きにお遇いしている私たちは、決して亡くなった方と永遠の別れをしてしまったわけではない。
むしろ、おそばにおいでになり、私たちを導いてくださる存在となっているのだと思う。
本日午前中は村国の真宗四か寺の御年頭まわりでした。
村国やその周辺のお家をまわり、御年頭のご挨拶をするのですが、多くの方とご挨拶をかわさせていただきました。
去年はヒザが悪かったので、不参加でしたので、久しぶりの参加です。
皆様本年もよろしくお願いいたします。
元日の今日、たくさんのご参詣ありがとうございました。
本来なら旧年中に寺に届き、お正月のお参りの時に配布いたします「證誠」が、遅れて届き、配布が間に合いませんでした。
途中からの配布では、行き違いがあるのではないかと思い、鏡餅をお配りする際に配布させていただくことに致しました。
今回は、おもに750回忌に関連する記事が多く掲載されています。お手元に届きましたら、ぜひお読みください。
私の文章も載っております。(御遠忌には関係ありませんが…)
「オネガイダカラ」
正善寺住職 藤堂尚夫
オネガイダカラ スグキテオクレヨ(池山栄吉)
池山栄吉先生の右のことばが、とても気になっています。このことばは「一心正念直来」(『浄土文類聚鈔』や『三心料簡および御法語』などに見えます。)というおことばを池山先生が独自に言い直されたもの。漢文の「一心正念直来」は非常にありがたい阿弥陀様のおことばですが、このままだと何か硬い感じがして、なかなか親しみが持てないように思います。
なんぢ、一心に正念して直ちに来たれ、我よくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ (『浄土文類聚鈔』書き下し文)
阿弥陀様が、「一心に念仏して、すぐに私の所へ来なさい。そうすれば、私はあなたを護ろう。水や火におちることを畏れずにやって来なさい。」とおっしゃっているのです。
「オネガイダカラ スグキテオクレヨ」 阿弥陀様が私たちにかけられた願いの切実さを、余すところなく伝えることばだと感じ入る次第です。
新年あけましておめでとうございます。
今年も除夜の鐘を聞きつつ、本堂で12時より正信偈のお勤め。
参詣の方々にご挨拶。
お勤めをしている間にお参りになられたお方とは、ちゃんとご挨拶ができませんでした。失礼いたしました。
村国は他のお寺や神社をまわられる方が多いので、新年と共にお参りいただく方、日中にお参りいただく方と様々です。
五月雨式でおいでになるので、もしかすると気づかず、ご挨拶できないこともあると存じます。失礼の段ご寛恕を。
多くの方と新年のご挨拶を交わしますと、新しい年を迎えたのだという感覚になってきます。
お正月はめでたいものですが、一休宗純は正月に杖の頭にどくろをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたということです。
正月は、冥途の旅の一里塚
めでたくもあり、めでたくもなし
という歌を詠んだと言われております。
「冥途の旅の一里塚」と言われるその中には、刻一刻と死が近づいているという認識が潜んでいるのでしょう。生の実相と言ってもよいかもしれません。
そんなことを頭に浮かべつつ、正月を迎えた次第です。