県内4宗主の思い(7) 最終章「教えと生きる」
親鸞ナウは、いわゆる越前四か本山と言われている4つの本山の宗主の思いを。
若い人が集まる本山、若い僧侶の活力を期待。
というところが短いまとめだろうか。
このことは非常によく分かるが、本山が何を担っていくのか、聞きたい思いが残る。
親鸞ナウは、いわゆる越前四か本山と言われている4つの本山の宗主の思いを。
若い人が集まる本山、若い僧侶の活力を期待。
というところが短いまとめだろうか。
このことは非常によく分かるが、本山が何を担っていくのか、聞きたい思いが残る。
尼講のお知らせもさせていただきます。
尼講
7月27日(水) 午後7時より
正信偈のお勤め・法話・お茶とお菓子とおしゃべり
どうぞお参りください。
鯖江本山(真宗誠照寺派本山誠照寺)の暁天講座を御聴聞。
講師: 花岡静人 師(本願寺派布教使 奈良県 勝光寺)
題: 「親鸞聖人と法然聖人」
流れよどむことのないご法話であった。
病院の御たとえ、(病室は4棟4号室を選ばないのに、見舞金は4万4千円を選ぶ)
は、作り話と断りながら、聴いているものをどんどん惹きつけていった。
法然上人を、本派では法然聖人と記すと決められたことに関する話は、疑問に思っていただけに、興味深かった。
曇鸞大師の蝉のお話も興味深かった。(現代語訳で掲げておく)
「たとえば蝉は春秋を知らない。ゆえにこの虫は夏ということも知らないのである。ただ人間がそれを知って、蝉が鳴くのは夏だというだけである。十念によって往生の業事が成就するというのは、神通力をもっている仏がいわれるだけである。衆生においては、ただ念仏相続して他のことを考える必要がないのである。」
曇鸞大師
断片的であるが、一端を知っていただけるなら幸甚である。
こちらは正善寺の行事案内です。
墓参盂蘭盆会法要
8月7日(日) 午後3時より
法話 本願寺派布教使 岩見順明氏
どうぞ皆様お参りください。
本山證誠寺の行事のご案内です。
墓参会
8月8日(月)午前10時 午後2時
法話 西宮寺住職 三崎霊証師
永代経会 華照院釋敬光 前御裏方 二十三回忌法要
8月20日(土)午前10時 午後2時
法話 教應寺住職 奥田順誓師
8月8日~8月20日
曼荼羅御開帳
私の目に入った仏教の講座をお知らせいたします。 暁天講座 真宗誠照寺派本山誠照寺 真宗大谷派 福井別院(東別院)暁天講座のご案内 本願寺派 福井別院(西別院)おはよう講座のご案内 |
お世話になっている川村妙慶さんの新著が今月末に発売されます。
読ませていただくのが楽しみです。
「女の覚悟 ひとり悩むあなたへ贈る言葉」
1500円 講談社
たとえばamazonで予約ができます。
こちらで見ることができるように、表紙は妙慶さんのお写真です。
親鸞なうフォローをしてみたい。
寶光(ほうこう)寺住職の櫻井智舟さんは、刑務官として受刑者と向き合った。
刑務官の仕事やそういう職の方が浄土真宗と向き合うということについて、私はなにも手がかりがない。
この方の在り方については、記事の文言を信じるしか手立てはないのだが、そこに綴られた刑務官としての在り方と、真宗僧侶としての在り方は、戸惑いを含みながらも、太い線で結ばれていると感じる。
「親鸞聖人なら、間違いなく、受刑者に対しても『それではダメだ、こうしなさい、もっと修業しろ』という上からの目線でなく、『お互いに罪を背負い、悩みを抱えた悪人だけど、ともに真宗の教えを聞いていこうや』と言われただろう」。
このことばは親鸞聖人の在り方をよく示しているように思う。
自分の内面にある悪や罪と向き合い、慚愧を感じるところに親鸞聖人の人間認識の大事な部分があるとすれば、矛盾を感じながら、道徳的、刑法的な意味での悪を犯したという悪や罪を持つ受刑者は、決して遠い存在ではなく、ある意味「親友」とさえ言えるのではないか。
「改心は、道徳や教訓、法律の域を超えて、自然に『感じる境地』から生まれる。すなわち『(改心を)努力で、せにゃならん』から『せずにおけない』にならないとできない。『自力』でなく『他力』を説く真宗の教えと通じる」
この言葉の重さをかみしめたい。
自殺者が年間三万を超え、交通事故の死者の数を大きく上回っている。
自殺者の数は、実はもっと多いともいわれているし、自殺を考える人は、この数の数倍とも言われる。
政府や自治体も、自殺者の対策に取り組みだしているが、数が減る気配がない。
「親鸞なう」は、宗教者が「自殺を向き合う」姿を追う。
NPO法人「京都自死・自殺相談センター」は、本願寺派僧侶が中心になって立ち上げられたNPO法人。
その代表の竹本了悟さんの活動を紹介。
仏教は不殺生を説く。「命は尊いもの。大切にしなければいけない」と法話で説くことで、自殺した人の遺族を苦しめることが過去にあった。(略)
同派の教義研究機関「教学伝道研究センター」は2007年、自殺をテーマに研究を開始。同派の全寺院を対象にアンケート調査を行ったところ、8割弱が「自殺は仏教の教えに反している」と回答し、研究員たちを驚かせた。
具体的なことはわからないが、自殺は教えに反するという認識を持つ人(僧侶)が
8割というのは、驚くには及ばない気がする。
実際はほとんどの人がそう考えているのではないだろうか。(アンケートって、けっこう趣旨を考え遠慮して答えるものだから)
ある意味、不殺生を説き、命の大切さを説くのは、仏教者にとって不可避のことといってもいいのかもしれない。
その不可避なことが遺族(当然自殺した本人も含まれるだろう)を苦しめることが問題なのだろう。
そこのところの対応は、非常に難しいと思う。
その隘路を「相談者に対する姿勢には、親鸞聖人の教えが通底している」という相談者に向き合う態度で打開しようとしているように思われる。
「自分のことをどうしようもない、生きる価値のない存在としか見られない、そうした人間こそ阿弥陀様は救ってくださるというのが真宗の教え。われわれは親鸞聖人の姿勢に習って、相談者に言葉を掛けている」
この意識があるからといって、すべての相談者が辛い状況を脱することができるかというと、なかなかそうはいかないだろう。
同悲というところから出発するしかないのかもしれない。
福井と真宗を語るとき、蓮如さんを抜きには語れないだろう。
山元派の教勢も、蓮如さんの存在は大きな影響を受けたところもあるので、手放しの蓮如賛美は受け入れがたいところもあるのだが、それを差し引いても、蓮如さんの存在は大きい。
主に池田勇諦さんの考えを中心にこの回の「親鸞なう」(「教え広めた蓮如(3)」)は進む。
心に残った池田勇諦さんのお言葉。
「永遠の生に目覚めると、過去を包み未来を含む永遠の『今』をいただく。その『今』が救われることこそ来世の救いになる。無常である現世の諸問題は、永遠である後生という異質なものとの出合いでのみ解決できることを導いた」
「われわれの日常感覚では、命より大切なものがあってたまるか、となるがそうではない。むしろそれほどの命であればこそ、真に生き生きとさせるものに出合わねばならない。その智恵を開くのが阿弥陀仏。だから命より大切なものになる。後生の一大事とは、自分の考えや判断のものさしを疑い問い直す意識転換のことでもある」
「今、人々は自分のものさしを疑うということをしない。折しも、今回の大震災がもたらした状況の一端は、自我中心・人間中心主義の傲慢(ごうまん)さが至らしめたと言えないか。いま一度、教えの受け取り直しをしなければ」
東派西派が、蓮如さんを仰ぐのは当然のことだろうが、蓮如さんは、今を生きる私にも問いかけてくださっている。