救われる悪人とは(2) 最終章「教えと生きる」
親鸞聖人のおっしゃる「悪人」は、一般に使われる道徳的な見地からの「悪人」もしくは「悪」とは違う。そういうあたりに「悪人正機」が誤解されたり、理解のしにくさがあるのだが、「親鸞なう」はこのあたりのことを考える。
本文では、ひろさちやさんと木越康さんの考えを紹介している。
碩学の2人のおっしゃること、十分納得のいくものだと思うので、くわしくは「親鸞なう」を。
興味深く読んだのはこういうところ。
親鸞ももちろん自らを「悪人」と語った。ただ、その際「深い『懺悔(さんげ)』とセットで言及されている」。「懺悔」とは「恥じる心」。親鸞が指す「悪人」とは「己の自己中心さを恥じる心、いわば『自分は愚かで浅はかな存在』だと分かっている人」なのだ。(略)
「往生をとぐ」という一節は「救われる」などと訳されるが、木越さんは「『救い』は、気持ちよくなったり楽になったりすることでなく、『自他共に傷つけず清らかに生きること。あるいはその世界』」と強調する。
そのような生き方を求める際に大事なのが、自分がたくさんの欲望を持ち合わせた凡夫であることを自覚する「恥じる心」であるからこそ、「悪人」の方が「善人」より「救い」に近いのだ。
「恥じる心」の指摘がとても興味深い。
聖人は「懺悔(さんげ)」や「慚愧(ざんぎ)」というお言葉をお使いだが、どちらも自分の身を顧みて「恥じる」ところからの出発点を示しているのだろう。
自己を透徹して見るというところから親鸞聖人の教えは始まるような気がする。