阿弥陀経
あるおうちにお参りに行く。
阿弥陀経を書き写されたということで、額に入れてあった。
何でも、阿弥陀経のお手本になるのは、一つしかないのだとか。
真宗では写経をするということはあまり盛んではないのだが、書き写すというのは、その言葉を大切にすることなのであるから、必要なことではないかとも思う。
いろいろとお経のお話をすることになったのだが、読経は短い方がよいかもしれないが、深遠なる教えが説かれているのだから、一字一句大切に読ませていただこうと思った次第。
あるおうちにお参りに行く。
阿弥陀経を書き写されたということで、額に入れてあった。
何でも、阿弥陀経のお手本になるのは、一つしかないのだとか。
真宗では写経をするということはあまり盛んではないのだが、書き写すというのは、その言葉を大切にすることなのであるから、必要なことではないかとも思う。
いろいろとお経のお話をすることになったのだが、読経は短い方がよいかもしれないが、深遠なる教えが説かれているのだから、一字一句大切に読ませていただこうと思った次第。
お知らせをかねて、私が法話をする予定を。
お彼岸のお中日(23日)
本山證誠寺 秋季彼岸会 午後2時より勤行 御親教の後
当寺尼講 午後7時より 正信偈のお勤めの後
どうぞお参りください。
今日は、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要奉加金のお願いに係の方々に回っていただきました。
御奉加にご協力いただきました皆様、感謝いたします。
係の方々、ご苦労様でした。ありがとうございます。
御遠忌を、皆様とともに成功させたいと存じます。
9月5日(日)宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要奉加金のお願いに係の方々に回っていただきます。
私たちに浄土真宗の教えを開き伝えてくださっている親鸞聖人の御遠忌ですので、何とぞご協力をお願いいたしたく存じます。
仏教には、布施という考え方があります。仏教は基本的に我を離れ利他を行うという教えといってよいかと思います。
私たちはともすれば、自分の得や自分の利益を中心に考え、行動しがちです。そこに我に対する執着が生まれ、それが苦となっているのです。
施すという行為が、その自分中心(執着)から離れる道の一つだと言えます。
ともすれば、お金に執着し、お金に縛られてしまう私。そういう私を客観的に見つめ、執着から解き放つのがお布施であるといってよいかと思います。
喜捨という言葉もあります。喜んで捨てる。ここにも、上で述べた考え方がよく伺えますね。
実際には、お金をお出しいただきたい、というお願いではありますが、仏教の教えに基づいて行われていること。御寄進を自分を見つめ直す契機にしていただきたいと存じます。
事業面からすれば、満額の御寄進をお願いすることになりますが、それぞれの方のご事情もございましょうから、ご事情を鑑みた御寄進であっても、ありがたさには変わりありません。
親鸞聖人との出会い、阿弥陀様との出会いの機縁と思し召して、布施行を実践していただきたい、と願う次第です。
ちなみに参考まで。「和顔愛語」(わげんあいご)というお布施もございます。係の方が訪れられたら、やさしいお顔で、思いやりの言葉をおかけいただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
本山證誠寺では、次のように秋季彼岸会を勤めます。どうぞご参詣ください。
秋季彼岸会
9月22日(水)から9月24日(金)毎日逮夜(午後2時より)勤行。
今月の尼講は、お彼岸のお中日に行います。
9月23日(木) 午後七時より
正信偈のお勤め・住職の法話、そのあとはお茶とお菓子とおしゃべり。
新しいお仲間大歓迎です。
尼講が終わりました。
ご法話は難しいもので、お話のネタを朝から探すのですが、どうもしっくり来ず、まとまりません。ついにタイムリミットになってしまい、時期が??なのですが、墓参会盂蘭盆会の時に出した寺報に書いた真宗のお盆のお話をすることになってしまいました。
真宗のお盆は、単なる先祖崇拝ではなく、仏さま(ここにご先祖も仏となっておられるので含まれます)と出会い、おみのりを聴くところに重点があるのだとお伝えしました。
それから、仏教とあきらめることについて。仏教でいう「あきらめ」は一般的に使う意味とは違って「明らめ」なのです。自分の姿を明らかに見ること。そういう機会としてお盆をはじめとする法縁をよろこびたいと。
つたないお話で申し訳ありませんでしたが、住職の問いかけに一生懸命答えてくださった方もあり、何かを伝えることが出来たのではないか、とよろこんでいます。
お知らせが遅くなってしまいましたが、本日尼講を行います。
尼講
8月27日(金) 午後7時より
正信偈のお勤め・住職の法話 そのあとはお茶とお菓子とおしゃべりと
新しいお仲間大歓迎です。一緒に御法をよろこびましょう。
14日15日は、お盆参りの日です。
特に、15日が正善寺ではピークになります。
午前中はある地域を歩いて回るのですが、なにぶん左膝の骨挫傷のため、きちんと正座が出来ないので、お参り用の椅子を持って回ることになりました。
自分で椅子を持って回ろうと思っていたのですが、その話を聞いて、皆さんが順番に次のお家に椅子を運んでくださいました。ありがとうございます。
それぞれのお家で、お茶を出していただき、お話をちょっとしてくるのですが、なにぶん軒数が多いので、ゆっくりというわけにもいきません。
椅子を持っていただいたときに、ちょっとお話しするのがいつもと違って新鮮でした。
同行二人という言葉もありますが、一人で歩く(短い距離ですが)よりも二人で歩く方が良いですね。
親鸞聖人も、一人の時には二人と思え。その一人は親鸞であるとおっしゃいました。
同行二人という言葉自体は四国のお遍路さんの言葉なのでしょうが、真宗にも聖人がいつも寄り添ってくださっている。阿弥陀様がおそばにいてくださっている。という感覚があるのですね。
お盆期間には、たくさんの方がお墓参りに正善寺を訪れてくださいました。
お墓参りも非常に大切なことなのですが、お寺に来られたのですから、本堂に入ってご本尊に手を合わせていただきたいと思います。
親鸞聖人も阿弥陀様もお待ちです。
ご自分の家のお墓だけでなく、ご先祖は阿弥陀様の浄土にいらっしゃる。
本堂のお内陣のお荘厳は、そのお浄土の様子をもしています。
お墓だけでなく、倶会一処のお浄土の姿をご覧になり、ご先祖を思うとともに阿弥陀様と親鸞聖人ともお会いいただきたいと思います。
(うかつなことに、本堂の鍵を開けたのに、前のガラス戸の入り口の鍵がかかっているのに気づかず、お墓参りの方に教えていただきました。いつも鍵をかけないでいるところなので、気がつかず、本堂にお入りになるおつもりがあったのに、お入りになれなかった方もおありかと思います。すみませんでした。)
本日正善寺の墓参会盂蘭盆会をお勤めすることが出来ました。
ご参詣の方々ありがとうございました。
年番の方々、お齋の係の方々、大変お世話になりました。
ご法話いただいた岩見先生、よく分かるお話をありがとうございました。
前田さんには、勤行を取り仕切っていただき、ありがとうございました。
皆様のおかげさまで、良い法会が勤められたとよろこんでおります。
明日はご本山の墓参会です。どうぞ皆様お参りください。