尼講のご案内
明日、尼講を行います。彼岸会を兼ねます。
よろしかったらおいでになりませんか。
正信偈のあと、住職が法話をさせていただきます。
9月23日(水)午後七時より 尼講
明日、尼講を行います。彼岸会を兼ねます。
よろしかったらおいでになりませんか。
正信偈のあと、住職が法話をさせていただきます。
9月23日(水)午後七時より 尼講
父の十三回忌法要がなんとか終わりました。
いろいろばたばたしましたが、良い法要であったと思います。
ご参詣の方々ありがとうございました。
明日、前住職の十三回忌法要を勤めます。
有縁の方々、どうぞお参りください。
前住職理尚院釈智遊十三回忌法要
午後2時より
説教 演仙寺殿
本山證誠寺の秋季彼岸会がお彼岸のお中日を挟んで3日間行われます。どうぞお参りください。
秋季彼岸会
9月22日(火)23日(水)24日(木)
午後2時より
正善寺の駐車場の入り口に掲示板を設置しました。
法要等の行事の案内・法語などの掲示をしたいと思っております。
現在は次の掲示をしております。
理尚院釈智遊十三回忌法要のご案内
法語「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」(しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃっこう びゃくしきびゃっこう)
法語は阿弥陀経よりとりましたが、お浄土の蓮の花の様子なのです。
青い花は青く光り、黄色い花は黄色く光り、紅い花は紅く光り、白い花は白く光る。
「世界で一つだけの花」ではありませんが、それぞれの花の持ち味を他と比べるのではなく、それ自体の持ち味として十分に発揮している様子なのです。
現代社会、なかなか自分の色で生き抜くことが難しいのですが、自分の色はそれ自体として輝いているということを忘れないようにしたいものです。
お彼岸のお中日(9月23日)には、正善寺では尼講を行います。
彼岸会も兼ねますので、どうぞおまいりください。
尼講(彼岸会)
9月23日(水)午後七時より
正信偈のお勤め・住職の法話のあとお茶とお菓子で気楽におしゃべりなど。
前住職理尚院釈智遊の十三回忌を勤めますので、ご参詣のほどをお願いいたします。
理尚院釈智遊釈智遊十三回忌十三回忌法要
9月19日(土) 午後2時より
説教 演仙寺殿
皆さんは今、お寺にいらっしゃる。
川村妙慶さんは、お寺という場所についてこう言っていらっしゃる。
◎お経の言葉に触れる(目)
◎読経をする。自分の発した声を自分の耳で聞く。鐘の響 きを聞く(耳)
◎本堂からお香やお花の香りが漂う(匂い)
◎読経は腹式呼吸をするので体が温まる。頭の活性化、法話で生きるための知恵をいただく (身)
◎なんといっても皆さんでわいわいしながらお茶やお菓子を楽しむ(舌)
お寺という場にいると言うことは、それだけで、五感を磨き、いきいきできると言うことなんですね。
それだけでもすばらしいことなのですが、お内陣の荘厳は、阿弥陀様のお浄土を表している。
それは、お家の仏壇も同じことです。
お寺に来て、仏様の前に座る、お内仏の前に座ると言うことは、実は、お浄土を感じることなのです。
そこで、お浄土と地獄を比べてみましょう。
これから二つの地獄とお浄土についてのお話をします。お浄土ではどうしているか考えてください。
ひとつめ。
お浄土の人が入る極楽湯と地獄の人が入る地獄湯は隣同士。広さも同じ。混み具合も同じくらい。
地獄湯では、「足を踏んだ」「水をかけた」等々争いが絶えません。
ところが極楽湯では、争いが全くなく、和気藹々とお風呂を楽しんでいる。
では、「極楽湯」では、皆さんどのように過ごしておられるのか。
ふたつめ。
お浄土と地獄では、食事をするとき、とっても長いお箸で食事をする。自分の口に食べ物を運ぶことができないような長さです。
地獄の人たちは、長いお箸をもてあまし、いっこうに食事ができない。ところがお浄土では、みんな食事を楽しんでいる。お浄土の人々はどのようにお箸を使っているのか。
答えはいかが?
ひとつめ。極楽湯の人は、輪になって、人の背中を流してあげるのです。これなら争いは起こりませんね。
ふたつめ。お浄土の人は、長い箸で、向かいの人に食べ物を食べさせてあげるのです。そうすれば、みんな楽しく食事を楽しむことができます。
地獄の人たちは、自分のことばかり考えている。つまり我を張っているから苦しむのですね。
お浄土の人たちは、他の人を利することを考えている。だから、自分も楽しくお浄土の生活を満喫できる。
仏教では、我にこだわってはいけないと教えます。我にこだわると苦しみを生むのです。
また、仏教は利他行を勧めます。他人を利することで、自分も幸せになれるのです。
きっと、私たちの多くは、知らぬ間に我を張り、他人のことをあまり考えない生活を送っているのではないでしょうか。
我へのこだわりをちょっと割り引いて、人のためを考えてあげる。
お寺の空間で、こういう気持ちになることも、お寺の意味なのではないでしょうか。
築地本願寺で本願寺LIVE 他力本願でいこう!2009という催しが開かれるそうだ。
東京まで行ってライブを見るというのはとうてい無理なのだが、告知ページの文句は考えさせられる。次は引用。
お寺は元来、仏教の道場であったとともに、地域の中心にあって誰もが気軽に集える場所でした。そこには歌があり、踊りがあり、笑いがありました。人々は仏教の全ては分からなくとも、お寺に集う事でそれを身近なものとしてきたのです。しかし、時代や価値観の移り変わりの中で、いまや多くのお寺がそうした姿を失い、特に若い人たちにとって、敷居の高い存在になってしまいました。( 中 略 )仏教は死後のためのものではありません。人がよりよく生きていくための指針となるものです。殺伐とした世にあって、今こそ私たちが学ぶべきことにあふれています。お寺の敷居の高さが人々と仏教の接点を奪っているのだとすれば、それは憂うべきことです。
私の小さい頃は、何もなくても同行さんがお寺にやってきて、「仏さんにこれ差し上げて」と言って、野菜や花などを持っていらっしゃって、本堂で念仏して帰られました。
ある年齢以上の方からは、「お寺でお経を習ったんや。日曜学校は楽しかった。」と、思い出を語っていただくことも多いです。
以前よりもお寺の敷居が高くなっているのではないか。そのために、仏教に遭わずにいる方が多いのではないか。
幸い、うちの寺は法要に来てくださる方が多いと思いますが、日常的にお寺に来るということになっているかといわれれば、疑問です。
直ちにライブをやるなどということはできませんが、「敷居の高さ」を取り払うという意識を持っていたいと思います。
そして「敷居の高さ」を取り払うにはどうしたらよいか。皆さんのご意見もお聞きしたいと思います。
今月の尼講は次の予定です。
8月27日午後7時より。
正真偈のお勤め、住職の法話があります。
お茶とお菓子を食べながら気軽にお話など。
ご一緒にいかがですか?