親鸞なう 第3章真宗の風景 (4)仏花を生ける
大慌てで、ちょっと「親鸞なう」について
「證誠」に載っていたので、標記の記事には、本山證誠寺で仏花を生ける様子が、写真で紹介されている。
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大慌てで、ちょっと「親鸞なう」について
「證誠」に載っていたので、標記の記事には、本山證誠寺で仏花を生ける様子が、写真で紹介されている。
いよいよ今年も最後の大晦日となりました。
来年は親鸞聖人の七百五十回忌の年でもあります。
ちらちらと鏡花に関する文章を読んでいたら、大正10年頃に親鸞ブームと言われるものがあったのだそうです。
大正12年が親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたるということで、文壇でも親鸞を取り上げた著作が多く、その影響が鏡花作品にも見られるとか。(鏡花はあんまり真宗を良く思っていなかったみたいですが…)
「出家とその弟子」(倉田百三 大正5年)は、やや早いのですが、このブームの先駆けと言えるようです。
今も親鸞ブームといって良い状況下と思いますが、(明日から五木寛之さんの「親鸞」の続編が新聞小説として読めるそうですし)単なるブームではなく、「仏法広まれ」という聖人のお言葉のように地に着いたものになって欲しいと思います。
以前京都の本屋でCDを見つけた。
東本願寺の近くで、近所の仏具屋さんや本屋さんにはライブのポスターが。
鈴木君代+天白真央という名前がすり込まれていたのか、本屋でCDを見つけたときには、いつの間にか手に取っていた。「いのちのうた」
この方たちのことは、この時初めて知ったのだが、三浦明利さんややなせななさんのお歌に最近親しみを持っているので、興味が非常に沸いた。
鈴木さんは東本願寺にお勤めだとか。
お寺でのコンサートやライブで活躍していらっしゃるということ。
「私と小鳥とすずと」は、たくさんの人が歌っている金子みすゞさんの詞。
新垣勉さんの重厚で美しい歌とはまた違って、軽やかで親しみの持てる歌になっている。
ご自身たちの手で曲をつけられているようだ。
「お坊さんに憧れてお寺に入ったの」は、「君ちゃんしか歌えないといわれる自己紹介ソング」(ライナーノーツ)なのだそうだ。
歌詞にもあるように「みんなになんでやって聞かれたけれど お坊さんにあこがれてお寺に入ったの」ということだという。
お坊さんがカッコイイと言われると、自分のことかと思って嬉しくなってしまうが、やっぱり「変なやつ」と一般的には思われるのだろう。
でも、カッコイイ?と思ってお坊さんをやるのはすてきなことだと思う。
なんだか、元気づけられる歌である。
三浦さんの「しんらんさま」の歌唱には、いままで聞いた「しんらんさま」とはまるで別の次元の美しさを感じたが、御和讃や歌で何か今までとは違う形で真宗のおしえをつたえられるのではないかな・・・という気持ちがわいてくる。
川村妙慶さんのご本「親鸞「イヤな自分」を克服する本」をやっと読了。
一気に読むことが出来なくて、断続的に読んだ。
前にも書いたようにお聖教の言葉とその言い換え?が掲げられ、それについての文章が書かれている。
いつもながら、エピソードの豊富さ、わかりやすい語り口は感心させられる。
お聖教の言葉そのものは、結構難しいものが多いのだが、それがちゃんと腑に落ちる。
どこからでも読むことの出来る本なので、ご一読をおすすめする。
と言っている間に、妙慶さんの新刊が手元に。
川村妙慶/文、高橋白鷗/書「 ほっとする親鸞聖人のことば」
書道家の人とのコラボなのだが、(まだきちんと読んでいませんが)感じの良い美しい本に仕上がっています。
京都でサイン会が予定されているようです。
1月28日(金)17時から ふたば書房京都店(京都タワー3階)
お近くの方はどうぞ。
住職はいませんが、妙慶さんはおいでです。(あたりまえ・・・)
川村妙慶さんの新刊が出るそうです。(妙慶さんのブログによる)
「ほっとする親鸞聖人のことば」(二弦社)
女性書道家とのコラボレーションだとか。
手に取るのが楽しみです。
この前の新著も読みかけですのに……
読了を目指しましょう。
「親鸞なう」についてもフォローがメチャクチャになってきていますが、昨日の「福井新聞」には「第2章真宗十派 (8)九州の末寺」として、山元派末寺の聖光寺さんを紹介している。
正直なところ、私自身はこのお寺のことを名前しか知らなかった。
遠方のこととて、全くどういうお寺かを知らなかったので、今回の記事でよく分かった。
「(炭鉱があった)当時は、御正忌報恩講や春秋の彼岸会、永代経法要、仏教婦人会法要などを営んでいた。でも、閉山後は、人口が減り法要を営むのが難しくなった。昭和63(1988)年に寺の行事をいったん中止にした」。
寺の行事が営まれないというのは、どういう状態なのだろうか?
よく分からないが、月参りをされ、文章伝道をされているのだという。
人口減少という社会的事情が、てきめんに寺院(の経営)に影響を及ぼすのである。
ある意味、人ごとと言ってばかりはいられない。
お寺がなくなるという現実があることも耳にしない訳ではない。
お寺のあり方を考えてみる必要があるのだろう。
仁愛高校の講演のご縁で、三浦明利さんに来ていただき、演奏とお話を伺った。
美しい歌声もすばらしかったし、「美人すぎる尼さん」と紹介される美貌もさすがと思ったけれども、歌われた詞の美しさと仏法を伝えようという志の深さに感動を感じた。
表現がストレートで、心に素直に響く。
「ふるさと」の歌に託して語られた三浦さんの思いは、ある意味、彼女の回心の表出なのだろう。
音楽に打ち込んだ思いから、仏法を伝えようとする思いへの転換と、自分を支えてくださる周囲の思いへの気づきには、ある種の感動を覚えた。
CDにもなっている「ありがとう」では、最後に仁愛での出会いへの思いを歌詞に付け加えていただき、嬉しかった。
演奏された歌の中で(みんなすばらしかったが)、特に印象に残った歌詞が次のもの。
手を合わせてた あなたの背中に
導かれてここまで来た
手を合わすわたし
(「手を合わす日々」)
ここに言われている「あなた」は人によって違って良いはずだ。
その人その人によって、手を合わす機縁は違うはずであるし、「あなた」も特定の人であったり、その人にとっての善知識であったり、あるいは親や祖父母であったりするのだろう。
阿弥陀様や親鸞聖人を「あなた」にする人も、もちろんあるはずだ。
たった今の私のお念仏や合掌が、いろいろなお導きによることに気づく。
そこには、一種のあたたかい感動があるのではないだろうか。
私の合掌は、多くのご縁による合掌なのだろう。
有り難い(まさしく「有ること難し」という意味での)合掌であり、お念仏の声として受け取ってみたい。
多方面でのご活躍の三浦明利さんとの御縁を喜ぶばかりである。