山折哲雄さんの『「教行信証」を読む』を読む。
「教行信証」は親鸞聖人の主著であるが、難解な書でもある。
山折さんをして「この難解きわまる書物に立ちむかい、何度立ち往生したかもしれない。そのたびに、心が萎えるような挫折をどれほどくり返してきたことか。」(「あとがき」)と言わしめる。
浅学の徒が、この本を敬して遠ざけてしまうのは、仕方のないことかもしれない。
浅学ながら「教行信証」は、御本典であり、真宗の理解には外すことができない書として、意識してはいる。
山折氏は、この本の書名を目次のようだと考え、そこに親鸞の苦闘を見る。また、法然への異議申し立て、という意図を見いだそうとする。
親鸞聖人が法然上人に対して、そのようなことを考えたかどうかは、ここの書を読んだ後でも釈然とはしないが、山折氏が親鸞聖人に寄り添い、聖人の思想上の苦しみを跡づけていることは大変興味深いところだ。
三浦明利さんの御著書『わたし、住職になりました』を読み終えました。
三浦さんのことが本当によく分かり、三浦さんのこれまでの人生が、ご縁で結ばれ、三浦さんがお寺を本当に愛しているのだと分かります。(ここで「お寺」というのは、門徒さんも含め、お寺という場にご縁があり、お寺を作り上げているすべてのもの、といった意味で使っています。)
仏教の考え方をやさしく語る部分もあり、仏教や浄土真宗に関して、教えられるところも多かったように思います。
これほど感動的な仏教に関する本も珍しいのではないでしょうか。
ご自分の楽曲について触れられたところもあり、三浦さんの歌を聴くとき、より深い理解の助けとなるでしょう。
手にとってお読みになることをおすすめいたします。
お彼岸も今日までですが、皆様と仏様との出遇いはいかがでしたでしょうか。
法会に合われた方も、墓参りをされた方も、お仏壇にお参りされた方も、それぞれの形で仏様と出遇われたのですね。
三浦明利さんの『わたし、住職になりました』が手元に。
まだ、「はじめに」を読み、目次に目を通しただけですが、三浦さんらしさが伝わってくるように思います。
読んだらまたこの本について書くことにします。
三浦明利『わたし、住職になりました』
アスペクト 定価 本体1400円+税 ISBN978-4-7572-2051-5
(以前にここに書いた予価とは少し違っているようです。)
話は変わりますが、あるところで金子大栄さんのことばに出遇いました。
花びらは散っても花は散らない。 形は滅びても人は死なぬ。
(『歎異抄領解』)
本を読んで理解した上のことではなく、浅学の身で勝手なことを思っているのかもしれませんが、お彼岸と関連して・・・
お彼岸を先祖供養の時期のようにマスコミは伝えますが、浄土真宗ではそういう考えは採りません。
身体というものがなくなったとき、阿弥陀様のお救いによって、私たちはお浄土に生まれ、そこで諸仏として新しく生きることになります。
阿弥陀様のお働きとその諸仏のお導きによって私たちは彼岸(=浄土、仏国土)を思うのが、お彼岸なのでしょう。
供養する対象としたとき、亡き人とわたしとの関係は、遠いのではないでしょうか。
諸仏に導かれ、ともに阿弥陀様を讃仰するとき、わたしたちは彼岸を感じるのではないでしょうか。
正善寺の彼岸会が無事終わりました。
たくさんの方にお参りいただき本当にありがとうございます。
暑さ寒さも彼岸までと申しますのに、ストーブ使用で始まって、追加のストーブを出すことになるくらいの寒さ。
寒い中で、熱心な読経・御聴聞、本当にありがとうございます。
ご法話は、寺報や施本を使いながら、浄土真宗においての彼岸の意味を阿弥陀様の本願と結びつけながらお話しさせていただきました。
お彼岸は23日まで続きます。
法会に合うことのできなかった方も、それぞれの方法で、(お内仏の前で、本堂に入られてご本尊の前で等々)仏様との出会いをしてくださるようにお願いいたします。
本日3月20日(火) 午前10時より 正善寺では彼岸会(尼講をかねて)を行います。どうぞお参りください。
施本には『お彼岸』(東本願寺出版)を用意しております。
その中から、少し紹介しておきたいと思います。
「彼岸は仏道修行の尊い季節」(池田理)
障がいを持つ身という共通点を通して教えが伝えられたことを題材にした味わい深い文章です。
その中に引かれている曽我量深先生のおことばを紹介させていただきます。
「釈尊はこの世に仏法を説くために生まれてきたというのであれば、我々は仏法を聞くために生まれてきたのである。この世は生死無常であるから一日もゆるがせにせずに仏道修行をせねばならぬ、法によらねば一日も安心できぬぞと教えるのが親鸞や蓮如の教えである。」
「仏道修行は彼岸に限ることではないが、春秋の彼岸は仏道修行の尊い季節である。」
「お彼岸のこころ」
巻末のお彼岸を説明した文章です。短いながら浄土真宗におけるお彼岸の意味が分かりやすくとかれています。その文章の一部を紹介しましょう。
お彼岸にお寺やお墓にお参りするのは、決して先祖供養をするためではありません。(中略)諸仏と仰ぐ亡き人からかけられた願いを、身をもって聞く場をいただくことなのです。(中略)その聞法の場がお寺であり、家庭のお内仏なのです。
その他「雑踏の喜び」(文・写真 大西暢夫)「彼岸の賑わい」(小野美知子)も載っております。
どうぞ、お手にとってお読みください。
寺報も用意しておりますので、そちらもお読みいただけるとありがたいです。
浄土真宗のお彼岸の受け止め方をご説明いたします。
浄土教の流れの中での「彼岸」
また浄土教では、阿弥陀様がお作りになられたお浄土は、西の方にあると信じられています(西方浄土)。
お彼岸のお中日、春分・秋分の日は太陽が真東から登り真西へ沈みます。日が沈む西には、極楽浄土があります。その極楽浄土を雑念を払ってイメージする「日想観」という修行に最適であると中国の善導大師はお教えになりました。(善導大師は「正信偈」に「善導独明仏正意」=善導大師はただ独りお釈迦様の本当の御意図を明らかにされた と言われています。)その善導大師の教えによって、浄土教を信ずる人たちは、浄土を慕って西方を拝むことを大切にしました。
浄土真宗のお彼岸
私たちの浄土真宗では、古くから本山を始め各寺院で彼岸会が行われてきました。(たとえば本願寺の第三代覚如聖人がその著書「改邪抄」で、彼岸会のことに触れておられます。)しかし、春と秋の彼岸に念仏修行に励むことを意図しているわけではありません。他力=阿弥陀様のお力によって救われていると信じる真宗門徒は、彼岸会を機縁とし、仏徳(阿弥陀様の徳)を讃え、普段からの聞法(教えを聞くこと)と信心を確認することを大切にしてきたのです。
現在の浄土真宗のお寺でも彼岸会は行われます。
私たちは、お彼岸に特別な仏道修行をする訳ではありません。西を向いて浄土を拝む「日想観」をするのでもありません。
真宗門徒として、お彼岸に私たちがすることは、ご家庭ではお内仏(お仏壇)をきれいに掃除して打敷(うちしき)やお花やお供えなどをしていつもの通りのお参りをします。
お墓参りも通常通り。特別なことはしません。
それは亡き人の供養のためではなく、亡き人がご縁となってお墓やお内仏やお寺へお参りして「私に」念仏を唱えさせてくれて、法話を聞かせてくれる。そうして亡き人のお導きによって「私が」仏法に出遇わせていただく。そんな仏様と出遇う機会の一つとして、大切に迎えていただければよいと思います。
本山證誠寺では本日より彼岸会を行います。
3月19日(月)から3月21日(水) 毎日午後2時より
正善寺では次のように彼岸会を行います。
3月20日(火)午前10時より
正信偈のお勤め・法話
尼講も兼ねております。施本も用意しております。
皆様どうぞお参りください。
お彼岸になりました。
お彼岸について、少し説明いたします。
お彼岸は春と秋の一年に二回
お彼岸は、春と秋の二回あります。春は春分の日、秋は秋分の日をお彼岸のお中日とし、お中日とその前後三日間、合わせて一週間をお彼岸とします。
お彼岸という風習は、インドや中国にはない日本独自のものです。始まりは聖徳太子の時代。朝廷の宮中行事から次第に民間へ広まっていったといわれています。
この時期、各仏教寺院では彼岸会(ひがんえ)の法要を行い、各家庭ではお彼岸のお参りやお墓参りなどが行われてきました。
迷いの「此岸」から理想の「彼岸」へ
私たちは、ともすると「彼岸」をこの世とは別の「あの世」というイメージで捉えがちです。しかし、本来はそういう別世界を意味するのではありません。
迷いと苦しみの中で生き死にする私たちの在り方を「此岸(しがん)」と言います。その迷いと苦しみから解放された仏教の理想の境地を「彼岸」と表現しているのです。
彼岸会は季節的に過ごしやすい春と秋の時期、仏道修行に励んで理想の境地に到ることを目指して行われてきた仏事でした。(「お彼岸」のことを「到彼岸」と言うのはこのためです。)
本山證誠寺では明日より彼岸会を行います。
3月19日(月)から3月21日(水) 毎日午後2時より
正善寺では次のように彼岸会を行います。
3月20日(火)午前10時より
正信偈のお勤め・法話
尼講も兼ねております。施本も用意しております。
皆様どうぞお参りください。
明日3月17日は彼岸の入りです。
お彼岸です。
3月20日(火)午前10時から 彼岸会を執り行いますので、是非お参りください。
この日、この時間は無理という方、お墓参りをされました折には、ご本尊にも手をお合わせくださいね。
お待ちしております。
高橋久子さん作詞・三浦明利さん作曲・三浦明利さん歌の『被災地からのありがとう』(CD)が今日届く。 東日本大震災から一年 慣れ親しんだ景色より姿を変えてしまった被災地から ありがとうが芽生えた CDのジャケットのことば。 高橋さんは宮城県名取市で被災された。 その思いを三浦さんが美しい歌にされた。 三浦さんの歌声で、被災地からのありがとうが広く伝わって欲しいと思う。