親鸞なう 特集
今日の「福井新聞」の「親鸞なう」は、一面(26面)で「県内4本山 宗主に聞く」が。
ご一読ください。詳しくはあとで。
今日の「福井新聞」の「親鸞なう」は、一面(26面)で「県内4本山 宗主に聞く」が。
ご一読ください。詳しくはあとで。
「働く女性から転身 寺の役割(7)」は、企業戦士から坊守住職と歩んだ教順寺の小泉雅子住職を取り上げる。
次々と寺の後継者が亡くなり、寺の住職となられたようだが、そのあたりの大変さは察してあまりあるものだったろう。
お寺に足を運んでいただこうと様々なイベントを企画する企画力はすばらしいが、これも強い思いがあったからなのだろうと思う。
小泉住職は会社を辞めて、寺に帰った日の感覚が忘れられないという。「本堂で手を合わせたとき、肩の力がすーっと抜けていった。すごく温かなものに包まれた。本堂の空気が私の心を解きほぐしてくれた」。小泉住職の活動は、「会社で一生懸命働く人たちに、自分と同じ気持ちを味わってもらいたい」という願いが出発点になっている。
最後の部分の引用だが、お寺がこういう場であってほしいものだと思う。
寺院経営という面では、霊園経営とか納骨堂の建設とかの問題は出てくるのだろうが、お墓のことをあまり云々したくはないという気持ちが私にはある。
お墓というものの存在が、真宗的には位置づけがよく分からないところがあるからだ。
たぶん、真宗の教えのなかには、お墓がなくてはならないものだといった意識はないと思う。
お墓が全くないという地域があり、それこそ真宗の教えにかなっているという言説を見た記憶もある。
この問題については、考えを表明する立場にはなさそうである。
ただ、これからお墓を建てる人(真宗門徒の方)には、「南無阿弥陀仏」または「倶会一処」と、正面に揮毫されたお墓を作っていただきたいとは思う。
1ヶ月遅れの「親鸞なう」フォローになります。
「後継ぎがいない」
真宗寺院は、多くが世襲制になっているはずだから、少子化の現在、この問題は避けて通れない。
世襲という制度が受け入れられづらくなっているという面もある。
(寺の長男が、寺を継ぎたくないという例が結構あるようだ)
寺院経営の難しさという面もあるのだろう。
記事では、西教寺の新住職を迎える行事「奴(やっこ)のお練り行列」の紹介から始まる。
この行事、どんなのだろう?私は見たことがないので興味がある。
永平寺地方の風習なのだろうか?
ともあれ、新住職を迎える喜びを伝える。
「寺を継ぐ人間が減っているということは、逆に言えば、寺をやりたい人間にとってはチャンス。(寺の子弟以外にも)もっと門戸を開いていくべきだ」と言うのは、託願寺住職牧野豊丸さん。
これは一つの見識だろうと思う。
教えを伝えるのは、必ずしも世襲である必要はない。
ご信心を伝えることのできる人であれば、寺を運営することは十分可能だろう。
「『寺にいる』『寺に入る』意味を自分自身に問うことが大事。(僧侶を)職業として選び取る、という態度でなければ生き生きした道場にならない」との牧野さんのことばは、世襲によって住職となった身にも、肝に銘じておかなければならないことだろうと思う。
明日(6月26日(日))浄徳寺さんの永代経です。
逮夜(午後3時より)の法話をさせていただくことになっています。(日中 午前10時)
よろしかったらお参りください。
翌日(6月27日(月))は、正善寺で尼講です。
尼講
6月27日(月) 午後7時より
正信偈のお勤め 法話 あとはお茶とおしゃべりと
どうぞ皆様お参りください。初の参加の方も歓迎です。
「手塚治虫のブッダ展」どうしても見たくて、見てきました。
手塚治虫の「ブッダ」は、まんがですが、単なるブッダ伝ではなくて、壮大なドラマのなかに仏教のエッセンスを表現した名作と言ってよいでしょう。
当然ブッダ(お釈迦様)は登場しますが、ブッダの尊さ、仏教の教えを述べるにとどまるのではなく、登場人物が織りなすドラマ全体が「生命の尊さ」を私たちに伝えてくれます。
「ブッダ」の原画と仏像でブッダの生涯をたどるというこの企画、一見の価値があります。
6/26迄と、期限が残り少ないですから、ご覧になりたい方は、是非。おすすめです。
連動して、「ブッダ」の映画が公開されています。
先にも述べましたように、ブッダ=釈迦も、一つの大きな物語を紡ぎ出すのですが、チャプラの物語も、ブッダの物語とあるときは別々にあるときは絡み合いながら展開していきます。
この二つの物語の絡み方が実にすばらしいのです。
二つの物語が、一つの物語となり、感動を呼び起こし、「生命の尊さ」を訴えます。
必見の映画と言えるのではないでしょうか。
福井近辺では、7/1までという映画館が多いようです。(映画館によっていろいろのようですが…)
興味のある方は、足をお運びください。
ちょっとばらしますと、ブッダの出家でこの映画は終わりですが、原作は続きがあります。
続編も?
昨日(19日)の[福井新聞]は[親鸞なう]が載りました。
特集として、山元派の御遠忌の様子も紹介されました。
よろしかったらご覧ください。
三門徒派の写真と山元派の写真が区別がつきにくいようです。
記事の右側の写真群が山元派です。
野村さんの写真があるのは、三門徒派、ジャズの演奏の写真があるのが山元派です。
またまた遅ればせの「親鸞なう」フォローということで。
この見出しは、ちょっと?
お寺は税金を納めなくていい、というふうに思っている方もいるが誤解だ。
詳しくは記事を見ていただきたいが、個人の収入には税金もかかるし、有料の事業をすれば、(税制上の優遇はあっても)税金がかかる。
たぶんこの記事の焦点は、寺の収入だけでは苦しいところが多いということだ。
記事の冒頭、今川雅照徳願寺住職は、「年金がなかったならば兼職せざるを得ない」と語る。
福井の真宗寺院は、規模の小さいところが多く、住職は兼職の方が多い。
「一概には言えないが、住職が兼職せずに生活するためには200~250軒の門徒戸数が必要」と関係者が語るが、300軒以上ないと、という話も聞く。
お寺の事情によって変わるところだが(お布施の額や、維持管理費がどれくらいかかるか、布教活動による収入がどれくらいか 等々 時折他のお寺のことを聞き、違いにびっくり仰天することすらある)兼職なしで住職や家族が生活するのは厳しいというところ。
そういうところから、寺の経営が苦難の時期を迎えるとし、その打開を法話の力、教化活動に求める。
最後のところを紹介しよう。
今川住職は「今やらなければならないのは教化活動だ」と強調する。「住職は勉強しながら、門徒との関係をつくっていかなければならない。現代の住職はカウンセラーにならなければ。悩みを打ち明けてもらうようになるには時間はかかると思うが、努力するしかない」。住職の務めに専心することが新たな門徒獲得につながると考える。
ほぼ、私自身も認識が共通していると言ってよいだろう。
かといって、住職に専念するという在り方を選ぶには、障害も多いし、記者子の言うような門徒獲得だけの問題に収斂されるものでもないだろうと思う。
新聞としての切り口からそういう言い方になることも理解できるが、問題をいたずらに単純化してはいけない。
取り上げられた三門徒派の法話大会、どうだったのでしょうね。
取り組みのコンセプトとしては、◎と思います。
これもずいぶん前の『親鸞なう』フォローですね。
「新たな坊守像」
まず坊守とは何か?
坊守とは本来、寺の番をする人のことを言うが、浄土真宗では古くから妻帯が認められていたこともあり、住職の妻のことをこう呼んできた。
一般的には、お寺の奥さん、という感じだろう。
ここには、住職は外に出て、坊守はうちで寺を守るものという意識が伺える。
古い男女の役割意識からすると、ある意味当然の意識なのだろうが、外へという意識を女性が持つのは、時代の要請と言ってよいだろう。
大谷派では2008年に寺院教会条例を改正し、坊守の呼び名を女性住職の夫にも適用することにした。また、教えを広めることに坊守が主体的にかかわるようにも定めた。男性中心だった寺院運営に男女共同参画の流れが広がっている。
大谷派の条例改正のことは詳しくは知らないが、大派には実際、女性が住職・男性が坊守、というお寺が何軒かあるのだそうだ。
これを聞いたときには、自分の古い男女意識をちょっとさぶられた。お寺にもジェンダーがあったのですね。(体質的に、古いですからね…)
お西の大遠忌には、法要の出仕が全員女性僧侶という日があったようだ。
女性僧侶と聞くだけで、意外な感じを持つ人がまだまだ多いと思うが、活躍の場をどんどん広げている、と何となく感じている。
(今は坊守の話ですね。でも、坊守さんで僧侶資格を持っている人はけっこう多いのです。)
「門徒さんに何か尋ねられたとき、『住職に聞かないと分かりません』では坊守失格」と若手坊守に諭す織田紀江さん。
「住職に聞かないと分かりません」ということばは、よく使われるが、よく考えると恐ろしいことばなのかもしれない。
坊守の意識のありようが如実に表れ、寺との関わり方があらわになっている。
◎何でもあす19日から「親鸞なう」が、新シリーズとして掲載されるようです。
またまた遅ればせの「親鸞なう」フォローです。
「住職の仕事」
お寺の朝礼というのが、取材班には新鮮だった様子。
本覚寺さんの朝礼や住職と法務員の仕事について紹介されている。
大きいお寺には朝礼があったり、打ち合わせがあったり、人が多いと会社組織のようになるのかもしれない。
門徒さんにあわせて、住職の仕事もありようが変わるというレポートのようだ。
住職って、何やるの?というような問を投げてほしい気がする。