親鸞なう
『親鸞なう』が本になりました。福井新聞社 1500円
まだきちんと読んではいませんが、新聞連載とは構成を変えたり、資料を追加したりと違うところもあるようです。
山元派の御遠忌法要の写真も載っております。
興味のある方は、お手にとってはいかがでしょうか。
『親鸞なう』が本になりました。福井新聞社 1500円
まだきちんと読んではいませんが、新聞連載とは構成を変えたり、資料を追加したりと違うところもあるようです。
山元派の御遠忌法要の写真も載っております。
興味のある方は、お手にとってはいかがでしょうか。
今日の「福井新聞」1面に「遺跡彩る真っ赤な大輪」として一乗谷の彼岸花の話題が載っている。
彼岸花は、秋のお彼岸の頃に咲くので、こう言われているという。
お彼岸が近くなりました。
正善寺の彼岸花はまだ咲いていませんが、お彼岸の頃には咲くのではないでしょうか。
お墓参りをされる方も、ぜひ本堂にお入りになって阿弥陀様に手を合わせていただきたいと思います。
お中日(23日)の午前10時には彼岸会を行いますので、お参りください。
西原祐治さんの「光 風のごとく」を読む。
「緑陰ポケット詩編」とあり、詩(短歌なども)の紹介に、西原氏の短い文章を添える。
寺報からの抜粋だという。
心に残る詩編が多く、このように選ばれる西原氏の造詣の深さが伺える。
一読を勧めたい本である。
川村妙慶さんの新著『女の覚悟 ひとり悩むあなたへ贈る言葉』を拝読。
妙慶さんの本は一通り読ませていただいているが、この本は悩みに向き合う妙慶さんの姿勢に感動を覚えた。
この方は悩み相談を長年されているが、その際の姿勢はいつも真摯で、仏教的だと思う。
この本では、今まで以上にひとりの人間としての(真宗的に言えば「ひとりの凡夫としての」)川村妙慶が文章の背景に見えてくるような感じだ。
相談者の悩み、苦しみの切実さはもちろんのこと、回答する川村妙慶その人が、丸ごとの人間としてご自分の悩みや苦しみの経験やそこからつかみ得たものを総動員して回答しておられる。
そういうふうに感じられた。
しかし、そこを踏まえながらも妙慶さんの回答は明るく、相談者にある転換をもたらしてくれそうな感じである。
「心をす~っと軽くしたいとき、この一冊」と帯にあるが、この本を読んだ人は実感として受けとめられるのではないだろうか。
妙慶さんはご自身のブログ「日替わり法話」でこの本のことを書いておられる。
一読の価値有り。お薦めの本です。
CD「小沢昭一が訪ねた能登の節談説教」を聞いている。
節談説教について特に詳しいわけでもないで大したことを言えるわけではないが、節談説教をしてしまう小沢昭一さんの芸の広さにはびっくりする。
このCD節談を広く知らしめた功績があるCDだということ。
茂利宗玄師・広陵兼純師の説教がおさめられており、節と語りの渾然一体となったというか移り変わりというか、非常に微妙な味わいがある。
節談が教義をどれくらい正確に伝えているかという点については疑義を持つ向きもあるようだが、民衆に教えを伝えるという点において、一種芸能とも言える語りの妙味は一定の意義を果たしているのだと思う。
「布教大会」としてこういうものが催され、満堂の人が集まるのは、大きな信の力なのであろう。(ただ、能登の布教大会にピリオドが打たれた、と側聞した。一度でいいから、この大会にお遇いしたかったなあ、と思う)
ノスタルジーを感じさせるような能登の冬景色の中に立つ小沢さんの表紙(?)も味わい深い。
すでに最終回を迎えてしまっている新聞の「親鸞なう」に追いつきそうです。
750回忌のご縁と共に五木さんの「親鸞」掲載連動企画とも思われる「親鸞なう」の在り方からすれば、この方が最終回を飾るのは当然のことなのかもしれない。
幅広い発言をされている五木さんの記事は、ともすれば焦点がぼけているような気もしないでもない。
できれば、この問題をという形でお話を聞いてほしかったようにも思う。
特に印象に残ったのは、「十悪五逆」について。
大経の抑止門として捉えられているところに「唯除五逆 誹謗正法」とある。
「仏典には『信じてひたすらに念仏すれば救われる。ただし、十悪五逆は除く』とあります。それについて法然は意図的に触れていませんが、親鸞は教行信証の中で触れています。十悪五逆の悪人といえども除外しない、無差別救済するというのが親鸞の考えではないでしょうか。嘆き多い、悲しい、不幸な人間が救われるという考え方だと思います」
無差別救済、というところは、なるほどと思う。
福井新聞ではだいぶ前に最終回を向かえていた「親鸞なう」ですが、こちらではまだ続きます。(遅いね。)
山折哲雄氏と池田勇諦師のことばを中心に構成されている。
山折氏はこう語る。
「現在の真宗教団は出家主義のようにも映る。信者からお金を集め、伽藍(がらん)を立派にし、豪華な袈裟(けさ)を着て仏事を営む」。親鸞は、当時公には認められていなかった肉食妻帯を行い、人々と同じ目線で信心を説いた。「この出発点を思い起こしてほしい。僧侶はどんな場面でも墨染めの衣を着るようなライフスタイルでよいはずだ」と訴える。「破戒僧や無戒僧が多くなる末法の時代にあって、あえて師の法然と違った道を行くと決意した親鸞の生き方はすごい」。
「師の法然と違った道」というのは、非僧非俗の立場のことを言うのであるが、清僧といわれた法然上人とはたしかに違う道であろう。この評価はいろいろあるのだろうが、他力の信心の徹底した姿といって良いのではないかと思う。
出家主義か否かはにわかに判断はできないが、親鸞聖人の在り方と若干の乖離があることは認めなければならないだろう。
とすれば、山折氏の発言は、肝に銘じておくべきだと思う。
人間にとって根源的な悪とは何か? それを乗り越えるためにどんなことが必要か? 道徳的退廃の現代において親鸞の『悪』の思想は、それらにこたえるものだ
現代の世相からこのことを導いておられるのだが、「悪」は、重要な問題なのだと思う。
親鸞ナウは、いわゆる越前四か本山と言われている4つの本山の宗主の思いを。
若い人が集まる本山、若い僧侶の活力を期待。
というところが短いまとめだろうか。
このことは非常によく分かるが、本山が何を担っていくのか、聞きたい思いが残る。
お世話になっている川村妙慶さんの新著が今月末に発売されます。
読ませていただくのが楽しみです。
「女の覚悟 ひとり悩むあなたへ贈る言葉」
1500円 講談社
たとえばamazonで予約ができます。
こちらで見ることができるように、表紙は妙慶さんのお写真です。
親鸞なうフォローをしてみたい。
寶光(ほうこう)寺住職の櫻井智舟さんは、刑務官として受刑者と向き合った。
刑務官の仕事やそういう職の方が浄土真宗と向き合うということについて、私はなにも手がかりがない。
この方の在り方については、記事の文言を信じるしか手立てはないのだが、そこに綴られた刑務官としての在り方と、真宗僧侶としての在り方は、戸惑いを含みながらも、太い線で結ばれていると感じる。
「親鸞聖人なら、間違いなく、受刑者に対しても『それではダメだ、こうしなさい、もっと修業しろ』という上からの目線でなく、『お互いに罪を背負い、悩みを抱えた悪人だけど、ともに真宗の教えを聞いていこうや』と言われただろう」。
このことばは親鸞聖人の在り方をよく示しているように思う。
自分の内面にある悪や罪と向き合い、慚愧を感じるところに親鸞聖人の人間認識の大事な部分があるとすれば、矛盾を感じながら、道徳的、刑法的な意味での悪を犯したという悪や罪を持つ受刑者は、決して遠い存在ではなく、ある意味「親友」とさえ言えるのではないか。
「改心は、道徳や教訓、法律の域を超えて、自然に『感じる境地』から生まれる。すなわち『(改心を)努力で、せにゃならん』から『せずにおけない』にならないとできない。『自力』でなく『他力』を説く真宗の教えと通じる」
この言葉の重さをかみしめたい。