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2011年7月13日 (水)

自殺と向き合う(4) 最終章「教えと生きる」

自殺者が年間三万を超え、交通事故の死者の数を大きく上回っている。

自殺者の数は、実はもっと多いともいわれているし、自殺を考える人は、この数の数倍とも言われる。

政府や自治体も、自殺者の対策に取り組みだしているが、数が減る気配がない。

「親鸞なう」は、宗教者が「自殺を向き合う」姿を追う。

NPO法人「京都自死・自殺相談センター」は、本願寺派僧侶が中心になって立ち上げられたNPO法人。

その代表の竹本了悟さんの活動を紹介。

仏教は不殺生を説く。「命は尊いもの。大切にしなければいけない」と法話で説くことで、自殺した人の遺族を苦しめることが過去にあった。(略)

同派の教義研究機関「教学伝道研究センター」は2007年、自殺をテーマに研究を開始。同派の全寺院を対象にアンケート調査を行ったところ、8割弱が「自殺は仏教の教えに反している」と回答し、研究員たちを驚かせた。

具体的なことはわからないが、自殺は教えに反するという認識を持つ人(僧侶)が
8割というのは、驚くには及ばない気がする。

実際はほとんどの人がそう考えているのではないだろうか。(アンケートって、けっこう趣旨を考え遠慮して答えるものだから)

ある意味、不殺生を説き、命の大切さを説くのは、仏教者にとって不可避のことといってもいいのかもしれない。

その不可避なことが遺族(当然自殺した本人も含まれるだろう)を苦しめることが問題なのだろう。

そこのところの対応は、非常に難しいと思う。

その隘路を「相談者に対する姿勢には、親鸞聖人の教えが通底している」という相談者に向き合う態度で打開しようとしているように思われる。

「自分のことをどうしようもない、生きる価値のない存在としか見られない、そうした人間こそ阿弥陀様は救ってくださるというのが真宗の教え。われわれは親鸞聖人の姿勢に習って、相談者に言葉を掛けている」

この意識があるからといって、すべての相談者が辛い状況を脱することができるかというと、なかなかそうはいかないだろう。

同悲というところから出発するしかないのかもしれない。

2011年7月12日 (火)

教え広めた蓮如(3) 最終章「教えと生きる」

福井と真宗を語るとき、蓮如さんを抜きには語れないだろう。

山元派の教勢も、蓮如さんの存在は大きな影響を受けたところもあるので、手放しの蓮如賛美は受け入れがたいところもあるのだが、それを差し引いても、蓮如さんの存在は大きい。

主に池田勇諦さんの考えを中心にこの回の「親鸞なう」(「教え広めた蓮如(3)」)は進む。

心に残った池田勇諦さんのお言葉。

「永遠の生に目覚めると、過去を包み未来を含む永遠の『今』をいただく。その『今』が救われることこそ来世の救いになる。無常である現世の諸問題は、永遠である後生という異質なものとの出合いでのみ解決できることを導いた」

「われわれの日常感覚では、命より大切なものがあってたまるか、となるがそうではない。むしろそれほどの命であればこそ、真に生き生きとさせるものに出合わねばならない。その智恵を開くのが阿弥陀仏。だから命より大切なものになる。後生の一大事とは、自分の考えや判断のものさしを疑い問い直す意識転換のことでもある」

「今、人々は自分のものさしを疑うということをしない。折しも、今回の大震災がもたらした状況の一端は、自我中心・人間中心主義の傲慢(ごうまん)さが至らしめたと言えないか。いま一度、教えの受け取り直しをしなければ」

東派西派が、蓮如さんを仰ぐのは当然のことだろうが、蓮如さんは、今を生きる私にも問いかけてくださっている。

救われる悪人とは(2) 最終章「教えと生きる」

親鸞聖人のおっしゃる「悪人」は、一般に使われる道徳的な見地からの「悪人」もしくは「悪」とは違う。そういうあたりに「悪人正機」が誤解されたり、理解のしにくさがあるのだが、「親鸞なう」はこのあたりのことを考える。

救われる悪人とは

本文では、ひろさちやさんと木越康さんの考えを紹介している。

碩学の2人のおっしゃること、十分納得のいくものだと思うので、くわしくは「親鸞なう」を。

興味深く読んだのはこういうところ。

親鸞ももちろん自らを「悪人」と語った。ただ、その際「深い『懺悔(さんげ)』とセットで言及されている」。「懺悔」とは「恥じる心」。親鸞が指す「悪人」とは「己の自己中心さを恥じる心、いわば『自分は愚かで浅はかな存在』だと分かっている人」なのだ。(略)

「往生をとぐ」という一節は「救われる」などと訳されるが、木越さんは「『救い』は、気持ちよくなったり楽になったりすることでなく、『自他共に傷つけず清らかに生きること。あるいはその世界』」と強調する。

 そのような生き方を求める際に大事なのが、自分がたくさんの欲望を持ち合わせた凡夫であることを自覚する「恥じる心」であるからこそ、「悪人」の方が「善人」より「救い」に近いのだ。

「恥じる心」の指摘がとても興味深い。

聖人は「懺悔(さんげ)」や「慚愧(ざんぎ)」というお言葉をお使いだが、どちらも自分の身を顧みて「恥じる」ところからの出発点を示しているのだろう。

自己を透徹して見るというところから親鸞聖人の教えは始まるような気がする。

2011年7月11日 (月)

他力本願 誰に頼る?(1) 最終章「教えと生きる」

やっと最終章に追いつきました。新聞の「親鸞なう」最終章は終了していますが…

他力本願 誰に頼る?

他力本願の意味が、真宗での使い方(意味)と一般に使われる意味と違いがあるというのはよくいわれるところ。

そこのところのひろさちやさんの説明は分かりやすい。取材班も、事前の勉強怠りなく、というところなのだろう。

写真の下に小さく「他力本願よりも本願他力と言った方がいい。その使い方の方が親鸞聖人に合っている」というひろさんの考えが示されている。

理由が十分には書かれてないうらみがあるが、私も「本願他力」をいう言い方の方を好んで使っている。

他力を本願としているのではなくて、本願は他力(阿弥陀様のお働き)だと親鸞聖人はお伝えになっていると思うから。

蜘蛛の糸のたとえは面白くよく分かると思います。

私があれやこれや言うより、記事を読んでいただく方が良いかと思いますので、このあたりで…

意識改革 寺の役割(10)

「親鸞なう」フォローをしてみよう。ずいぶんと旧聞に属するところだが…

意識改革

お寺や僧侶の意識改革の必要性は、認めざるを得ないところだと感じる。

「住職は『サービス業』」という副題が表すように、門徒の方に対するサービスを考えなくてはならない状況であることはたしかだし、そういう意識は必要だと思う。

お手次のお寺を変えたという御門徒の紹介があるが、そういう意識の必要性を感じさせる事例だ。

ニーズではなくウォンツに答える。とある。

ちょっとこのウォンツには抵抗がある。

きっと経営理論などで使われる用語なのであろうが、仏教にはあまり持ち込んでほしくないと感じる。

ウォンツとは訳せば「欲」なのだろう。

「小欲知足」を教える仏教からすると、ウォンツに答えるという在り方には矛盾を感じざるを得ない。

欲望に従って増大してきた資本主義の罪の部分をすでに私たちは知っているのだから。

そこにある問題意識は共有するべきものだと思うので、もうちょっと仏教にかなう用語を使っていただきたいと思う。

「ホスピタリティ」なんていかが?

最近は観光業界の用語みたいな感じもするが、少し中身を変えて寺院経営は「ホスピタリティ・ビジネス」と言えるんじゃないかな??

戯言ですが、ホスピタリティあふれるお寺のほうが、ウォンツに答えるお寺よりも、

お寺らしいとおもいますが・・・

2011年7月 9日 (土)

門徒の思い 寺の役割(9)

遅れている上に、見事に滞っている「親鸞なう」フォローを久しぶりに。

門徒の思い

真宗の教えを継承する人が少なくなっている。

そういう危機感が門徒さんのなかにもある。

そこを、自分には関係ないと通り過ぎるか、継承すべきと働きかけをするか。

門徒たちが自主的に始めた聴聞会「お浚(さら)い講」をまず紹介する。

あまり体系的に宗学やお聖教を学んだことがない私には、こういう学習会形式の集まりはよく分からないが、参加の門徒さんは、非常に熱心なようだ。

教えを求める真剣さ、大切なことだと思う。

「振り向けば、(教えの)バトンの受け手が少なくなっていた。今の危機的状況をどうすべきか、自らに問い掛ける意味があった」と言うのは、山田清人さん。

寺の配置や学習会の開催を提言していらっしゃるようだ。

寺の配置について、統廃合については、すぐにできるものではないと思うが、ある程度視野に入れておかなければならないことだと思う。

山田さんは「近くて便利な、コンビニ感覚で参加できる真宗の学習会が必要だ」と呼び掛けている。

お寺の数が、コンビニより多いのだそうだ。(注)

門を閉ざすのではなく、気軽に来ていただける場所。

そういうのが理想だと思う。

(注)

山田清人さんから、「親鸞なう」で、山田さんはこのようなことを述べていないとご指摘がありました。山田さんによれば、本願寺派寺院10279ケ寺、コンビニ上位5社 37919店舗だそうです。

 この部分は、私の感想の部分で、ある御講師のお話やウェブ上で見たものを元にしており、全宗派のお寺の数として述べています。統計上の確認をしているわけではないので、間違いであるなら、ご指摘いただければ幸いです。

山田清人さんが「親鸞なう」でおっしゃっているわけではありませんので、ご了解くださいますようお願いいたします。尚、記事にリンクをしてありますので、山田さんのご発言をご参照ください。

山田さんのご指摘には、深く感謝申し上げます。

2011年6月26日 (日)

働く女性から転身 寺の役割(7)

働く女性から転身 寺の役割(7)」は、企業戦士から坊守住職と歩んだ教順寺の小泉雅子住職を取り上げる。

次々と寺の後継者が亡くなり、寺の住職となられたようだが、そのあたりの大変さは察してあまりあるものだったろう。

お寺に足を運んでいただこうと様々なイベントを企画する企画力はすばらしいが、これも強い思いがあったからなのだろうと思う。

小泉住職は会社を辞めて、寺に帰った日の感覚が忘れられないという。「本堂で手を合わせたとき、肩の力がすーっと抜けていった。すごく温かなものに包まれた。本堂の空気が私の心を解きほぐしてくれた」。小泉住職の活動は、「会社で一生懸命働く人たちに、自分と同じ気持ちを味わってもらいたい」という願いが出発点になっている。

最後の部分の引用だが、お寺がこういう場であってほしいものだと思う。

2011年6月25日 (土)

霊園経営 寺の役割(6)

寺院経営という面では、霊園経営とか納骨堂の建設とかの問題は出てくるのだろうが、お墓のことをあまり云々したくはないという気持ちが私にはある。

お墓というものの存在が、真宗的には位置づけがよく分からないところがあるからだ。

たぶん、真宗の教えのなかには、お墓がなくてはならないものだといった意識はないと思う。

お墓が全くないという地域があり、それこそ真宗の教えにかなっているという言説を見た記憶もある。

この問題については、考えを表明する立場にはなさそうである。

ただ、これからお墓を建てる人(真宗門徒の方)には、「南無阿弥陀仏」または「倶会一処」と、正面に揮毫されたお墓を作っていただきたいとは思う。

2011年6月20日 (月)

福井新聞

昨日(19日)の[福井新聞]は[親鸞なう]が載りました。

特集として、山元派の御遠忌の様子も紹介されました。

よろしかったらご覧ください。

三門徒派の写真と山元派の写真が区別がつきにくいようです。

記事の右側の写真群が山元派です。

野村さんの写真があるのは、三門徒派、ジャズの演奏の写真があるのが山元派です。

2011年6月18日 (土)

税制優遇も… 寺の役割(4)

またまた遅ればせの「親鸞なう」フォローということで。

税制優遇も…」

この見出しは、ちょっと?

お寺は税金を納めなくていい、というふうに思っている方もいるが誤解だ。

詳しくは記事を見ていただきたいが、個人の収入には税金もかかるし、有料の事業をすれば、(税制上の優遇はあっても)税金がかかる。

たぶんこの記事の焦点は、寺の収入だけでは苦しいところが多いということだ。

記事の冒頭、今川雅照徳願寺住職は、「年金がなかったならば兼職せざるを得ない」と語る。

福井の真宗寺院は、規模の小さいところが多く、住職は兼職の方が多い。

「一概には言えないが、住職が兼職せずに生活するためには200~250軒の門徒戸数が必要」と関係者が語るが、300軒以上ないと、という話も聞く。

お寺の事情によって変わるところだが(お布施の額や、維持管理費がどれくらいかかるか、布教活動による収入がどれくらいか 等々 時折他のお寺のことを聞き、違いにびっくり仰天することすらある)兼職なしで住職や家族が生活するのは厳しいというところ。

そういうところから、寺の経営が苦難の時期を迎えるとし、その打開を法話の力、教化活動に求める。

最後のところを紹介しよう。

今川住職は「今やらなければならないのは教化活動だ」と強調する。「住職は勉強しながら、門徒との関係をつくっていかなければならない。現代の住職はカウンセラーにならなければ。悩みを打ち明けてもらうようになるには時間はかかると思うが、努力するしかない」。住職の務めに専心することが新たな門徒獲得につながると考える。

ほぼ、私自身も認識が共通していると言ってよいだろう。

かといって、住職に専念するという在り方を選ぶには、障害も多いし、記者子の言うような門徒獲得だけの問題に収斂されるものでもないだろうと思う。

新聞としての切り口からそういう言い方になることも理解できるが、問題をいたずらに単純化してはいけない。

取り上げられた三門徒派の法話大会、どうだったのでしょうね。

取り組みのコンセプトとしては、◎と思います。

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