本・新聞 Feed

2011年6月18日 (土)

新たな坊守像 寺の役割(3)

これもずいぶん前の『親鸞なう』フォローですね。

新たな坊守像

まず坊守とは何か?

 坊守とは本来、寺の番をする人のことを言うが、浄土真宗では古くから妻帯が認められていたこともあり、住職の妻のことをこう呼んできた。

一般的には、お寺の奥さん、という感じだろう。

ここには、住職は外に出て、坊守はうちで寺を守るものという意識が伺える。

古い男女の役割意識からすると、ある意味当然の意識なのだろうが、外へという意識を女性が持つのは、時代の要請と言ってよいだろう。

 大谷派では2008年に寺院教会条例を改正し、坊守の呼び名を女性住職の夫にも適用することにした。また、教えを広めることに坊守が主体的にかかわるようにも定めた。男性中心だった寺院運営に男女共同参画の流れが広がっている。

大谷派の条例改正のことは詳しくは知らないが、大派には実際、女性が住職・男性が坊守、というお寺が何軒かあるのだそうだ。

これを聞いたときには、自分の古い男女意識をちょっとさぶられた。お寺にもジェンダーがあったのですね。(体質的に、古いですからね…)

お西の大遠忌には、法要の出仕が全員女性僧侶という日があったようだ。

女性僧侶と聞くだけで、意外な感じを持つ人がまだまだ多いと思うが、活躍の場をどんどん広げている、と何となく感じている。

(今は坊守の話ですね。でも、坊守さんで僧侶資格を持っている人はけっこう多いのです。)

「門徒さんに何か尋ねられたとき、『住職に聞かないと分かりません』では坊守失格」と若手坊守に諭す織田紀江さん

「住職に聞かないと分かりません」ということばは、よく使われるが、よく考えると恐ろしいことばなのかもしれない。

坊守の意識のありようが如実に表れ、寺との関わり方があらわになっている。

◎何でもあす19日から「親鸞なう」が、新シリーズとして掲載されるようです。

2011年6月16日 (木)

住職の仕事 寺の役割(2)

またまた遅ればせの「親鸞なう」フォローです。

住職の仕事

お寺の朝礼というのが、取材班には新鮮だった様子。

本覚寺さんの朝礼や住職と法務員の仕事について紹介されている。

大きいお寺には朝礼があったり、打ち合わせがあったり、人が多いと会社組織のようになるのかもしれない。

門徒さんにあわせて、住職の仕事もありようが変わるというレポートのようだ。

住職って、何やるの?というような問を投げてほしい気がする。

誰のもの (1)寺の役割

すっごく前の記事になってしまいましたが、久しぶりの「親鸞なう」フォローを。

寺の役割」今回は「寺の役割」というより「誰のもの」がメインになっているような感じがする。

真宗寺院は「門徒のもの」といわれる。記事のなかにもあるように、住職も門徒のなかの一人というのが、真宗での位置づけだと言ってよいのだろう。

お寺に住む門徒が住職だという言い方もある。

「真宗の寺は、門徒たちが集まって仏法を聞く場。住職は寺を預かり住まわせてもらっているが、門徒と同じ立場だ」熊谷純成住職のことばは、そこのところを語っている。

寺院の建設、改修にも、たいていの場合門徒さんに負担をお願いすることになる。

もちろんお金のかかることをなぜしなければならないのかという声も出て当然だという気がする。

理解を得るのも大変だ。

お寺を立派に と思う気持ちもあれば、負担をかけたくない、負担をしたくない、という気持ちもあるだろう。

そこには、門徒さんにも「寺は門徒のもの」という意識を持っていただくことが大切だし、住職にもこの意識は欠かせないのだと思う。

2011年5月16日 (月)

生と死に想う 二河白道のたとえ

最近求めた本願寺派勧学の梯實圓先生のCD「生と死に想う」と「二河白道のたとえ」を聞いている。

梯先生の篤実な語り口も心にしみてくるが、今まで何となく知っていたことが、この方のお話で染み渡ってくるような感じ。

広い学識からにじみ出るものなのだろう。

福井で一度お話を拝聴したことがあるが、そのときの感覚がよみがえるようだ。

2011年5月13日 (金)

お寺?

山元派本山證誠寺での宗祖親鸞聖人750回御遠忌まで、1ヶ月を切っている。

いよいよという感じもするが、他派の御遠忌(または大遠忌)もこの4月5月6月あたりに勤まるところが多い。

大震災への対応を含め、親鸞聖人の御心を伝えるという意味でも、御遠忌が新しい歩みを始める機会となってほしいと思う。

人は寺を求めるのではなく、仏教を求めようとしているのでしょうか。

とドキリとしてしまうようなひと言を川村妙慶さんがブログで。

現代人は死んで行方不明になる人が多い(大嶺 顯)

という、これもドキリとするようなことばもご紹介されている。

親鸞聖人750回忌法要をご縁に
どうか全国のお寺さま!!!!
もう一度 新たな気持ちで
お寺を開いていきましょう。

ご門徒と共につながっていきましょう

それが親鸞さまはじめ、ご先祖さまの本当の喜びではないでしょうか

と結ばれている。

稲場圭信さんからご教示いただいたのだが、稲場さんは宗教の社会貢献の定義を次のようにされている。

「宗教者、宗教団体、あるいは宗教と関連する文化や思想などが、社会の様々な領域における問題の解決に寄与したり、人々の生活の質の維持・向上に寄与したりすること」(『社会貢献する宗教』40頁)

本当はきちんと御著書を拝読してから反応すべきだが、この部分に感じるところが多いので、引用させていただく。

妙慶さんの呼びかけとともに、稲場さんの示された社会貢献の在り方を考え合わせると、お寺はお寺(に住んでいる人)のものじゃなく、お寺に繋がりのある人のものなんだなぁ、と思う。

お寺によって様々な在り方や事情があるのも当然で、お寺の維持も昨今いろいろと問題が多いが、こういうことを忘れてはいけないのだろう。

2011年5月12日 (木)

死とは?

死とは、
死を賭して周りのものを導く、
人生最後の授業。
                藤原新也

いま、おふたりの中陰のお勤めをさせていただいているが、枕経・お通夜・葬儀・中陰の法要と、遺族の方々と接することが多くなる。

死は、親しいものとの別れであり、悲しいものであるが、遺族の方々は、どう受けとめ、その受けとめに僧侶はどのようなことをさせていただけるのだろうか。

藤原新也さんのことばを、たまたま見る機会があり、揺さぶられた。

死の受け止め方はいろいろとあるだろうが、自身の死を通して、周りのものを導く

というあたり、よく確認をしておく必要があるように思う。

「思いやり今こそ」

宗教者災害救援ネットワーク」を立ち上げた大阪大学大学院准教授 稲場圭信さんの「毎日新聞」の記事。「心のページ:「思いやり」今こそ 稲場圭信さんが語る」のご紹介。

以前に「親鸞なう」で紹介された稲場さんの記事を取り上げたが、仏教でいう「利他(主義)」を「思いやり」というわかりやすいことばに置き換えて、発信しておられる。

大震災と宗教について、次のように述べられている。

大震災を機に日本が大きく変わろうとしている今、宗教を豊かな可能性を秘めたソーシャルキャピタル(社会関係資本)として見直すことができると思います。

宗教というのは個人的な内面的な問題として信心を語り、信仰を語るけれども、(それはそれで大きな意味はある) こういう視点はなかなか持てずにいるのかもしれない。考えなければいけないところだろう。

 宗教には、地縁、社縁、血縁を失った人々、初めて出会う人々の間に新しい縁を作っていく可能性がある。苦難にある人を思いやり、苦により添うのが宗教。

これからの宗教の役割として、このように述べられている。

無縁社会ということばが現代社会を象徴することばとして取り上げられるが、仏教は縁を大切にする。

思いやり(=利他)の実践と、新しい縁を紡ぎ出すこと。

このあたりに仏教の求められている働きがあるような気がする。

2011年5月 7日 (土)

親鸞展 図録

親鸞展の図録が真宗教団連合から送られてきた。

一度京都市美術館を訪れてみてきたが、展示品の入れ替えもかなりあるようで、もう一度見てみたいと思う。

図録で予習してから行けるといいのだが・・・どうなるか?不明です。

(11)復興に向け

「親鸞なう」「(11)復興に向け」は、宗教学者山折哲雄さん。

この方の「親鸞をよむ」(岩波新書)は、すばらしかった。

ご出身が東北、親戚知人も多いということで、TVで震災後の東北を訪れる姿が流されてもいた。

山折さんは「地獄」「無常観」を軸に震災を語る。

特に「無常観」を強く述べる。

 「メディアを通じて見る被災者の表情が、非常に穏やかだ。心の底では怒り狂い、悲しみ、苦しみ、のたうち回っているような方々でもそう見える。外国の巨大災害では、被災者の表情は怒っている。日本人との対照性は何だろうと思った」。被災者の穏やかな表情の中に日本人の無常観を見ている。

 「無常観は日本人の可能性ではないだろうか。自然と柔軟に対応しながら、粘り強く生きていく。穏やかな表情こそが再建の道を歩んでいく重要なエネルギーになっていく」

無常観というと私たちははかなさと結びつけてしまいがちだ。

もちろんはかなさとの関係は深いが、「日本人の可能性」「再建の道を歩んでいく重要なエネルギー」と積極的に捉えるところが、新鮮で意義深く思われる。

(10)縁起の教え

「親鸞なう」「(10)縁起の教え」は上田紀行さんが登場。

文化人類学者だが、「癒やし」を考え、「お寺ルネッサンス」「仏教ルネッサンス」として、お寺や仏教に関する発言も多い方。

「日本の仏教はありがたい話をするだけで、実際に苦しんでいる人たちに何もしないというイメージを持たれている。教えが実践に結びついているのか、いま問われている」。

冒頭のこの言葉は、現在の仏教、お寺の在り方の問題点を鋭く突いている。

お寺や僧侶のネットワークや実地の活動に対しては、この方はエールを送ってくれている。

「東南アジアの貧しい子どもたちの教育支援、自殺やホームレス問題、ハンセン病救済などに携わる僧侶たちが、そこでの経験を生かして自発的に動いた。何としても救いたいという慈悲の心が僧侶たちの根底にある」

僧侶達が慈悲を体現するということに対しては非常に好意的だ。

ある意味、慈悲の実践の在り方が僧侶に問われているのかと思う。

「今回の震災での死者、行方不明者数は2万6千人以上に上っている。とんでもない災害だと思っていたが、震災に近い数の人が毎年自ら命を絶っていることに気付き、ハッとした」

震災の傷跡を地獄と呼ぶなら、私たちの社会にはまさに地獄が存在しているのかもしれない。

震災は現象として我々に直接訴えかけるが、年間3万人を超える人が自死しているこの社会の闇は深い。

「私たちがご先祖様として、次の世代にどのような社会を残していくのか。『前』との縁起を説く必要もある」

 「ご先祖様に感謝しながら、子どもたちの未来をつくりだしていく。両方が縁起の考え方だと思う。今の社会のどこがいけないのか、みんなで考えなければいけない。未来をつくることは、被災者の救済につながっていく」

私たちは「縁起」を仏教の根本だとして大切にするが、確かに「後ろ」との関係でばかり説いている。

「因縁生起」を略したものが「縁起」だが、原因と結果について考えを致せば、未来へのご縁も当然視野に入れなければならないだろう。

仏教の陥穽を鋭く突く発言だと言える。

余談なんだけれど、この人の奥さんはNHKアナウンサーの武内陶子さんだと初めて知った。ちょっとびっくり。(無知?)

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