なぜ報恩講
もしかして・・・「なんで報恩講行かんなあかんのか」(福井弁)という思いをお持ちの方に。
住職がお答えするといいのですが、かわりに妙慶さんに答えていただくという趣向。
ここをクリック
正念寺さんも明日報恩講なのですね。
正念寺さんお近くの方はどうぞ正念寺さんへ。
正善寺お近くの方はどうぞ正善寺へ。
どちらもお近くでないという方は、お近くの寺院の報恩講へ。
近くで報恩講をやってる寺がないという方は、お家の御仏壇で。
合掌いたしましょう。
もしかして・・・「なんで報恩講行かんなあかんのか」(福井弁)という思いをお持ちの方に。
住職がお答えするといいのですが、かわりに妙慶さんに答えていただくという趣向。
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正念寺さんも明日報恩講なのですね。
正念寺さんお近くの方はどうぞ正念寺さんへ。
正善寺お近くの方はどうぞ正善寺へ。
どちらもお近くでないという方は、お近くの寺院の報恩講へ。
近くで報恩講をやってる寺がないという方は、お家の御仏壇で。
合掌いたしましょう。
昨日のNHKラジオ第2放送「文化講演会」は川村妙慶さんのお話でした。
七月に草津で行われた講演の模様ということでした。
妙慶さんらしく、わかりやすく仏教を説いていただいている感じです。
後半のご自分の歩んだ道をお話になる部分も御著書やお話でなじんだものが多く、慕わしいような気持ちで聴かせていただきました。
皆様お聴きになりましたでしょうか。
お聞き漏らしの方に。
講演の再放送は
NHK第二放送 ラジオ
平成23年 11月5日(土) 6:00~7:00
テーマ : 「心の荷物をおろす智慧」
川村 妙慶
妙慶さんのブログでは、講演でも触れられた「その後のウサギとカメ」の人形劇の話題も。興味のある方は、ご覧あれ。
東本願寺御影堂で行われた公開講演会・シンポジウム「老いといういのちの相」を聴く。
正直なところ、参加する際の興味の中心は鷲田清一氏が何を話されるのかというところであった。
氏は現象学(哲学)をバックボーンにして社会や文化の問題を臨床的に考察し語る、存在自体が我々をワクワクさせるような方である。
著書でその有り様の一端は理解しているつもりだが、その人を見てみたいという興味が一番だった。(あんまり宗教的な関心ではないが…)
多岐にわたる現象から老いについての考察を語る鷲田氏はやはりワクワクさせてくれる存在であった。(阪大総長退任後、大谷大学に転身されているのには少し驚いた)
臨床の知をますます深められることだろう。
老いが問題として語られるが、課題として語られなければならないというあたり、頷かれる指摘であった。
小沢牧子氏は心理学研究者。自らを「老いの当事者」といい、参加者全員が「当事者」という発言は、誠にもっともなことで、話を聞いてみようという私の傍観者意識が鋭くえぐられるところでもあった。
「ぼけ」についての発言も、認識の転換を迫られるところ。
藤川幸之助氏は詩人・文筆家。不明にしてこの方を存じなかったが、実際に母親の介護の問題としての「老い」の相をビビッドに表現され、生と死の問題を生々しく語られた。感銘深いお話であった。
シンポジウムとしては、コーディネーターと発言者の問題意識のレベルがかみ合わないところも見られたが、そこがむしろ話が広がり、多様な発言になっていておもしろかった。
本日、彼岸会を勤めます。どうぞお参りくださいね。
9月23日(金) 午前10時より
正信偈のお勤め・住職法話
相愛大学に行って中沢新一氏の集中講義「原発と仏教」を聴講。
といっても最終日のみの聴講となった。(残念)
相愛はお西の学校であるが、仏教文化のコースを開設するなど、仏教を今日的視点で捉え直そうという機運があるように、外から見ていると思う。
釋徹宗氏はここの先生だ。(最終日は、残念ながらご不在ということ)
中沢氏には、ふだん浄土真宗という枠の中だけで考えてしまう私の頭に大きな宗教という枠組みから揺さぶりをかけていただいたと思う。
もちろん、親鸞の位置づけもしっかりお話になるのだが、宗教そして仏教を幅広く捉えられ、原発の問題に結びつけられるのは相当な力量と知識量だと感じてしまう。
原発への結び付けは、少し性急な気もしないではないが、西洋文明のつくり出したものを無批判に受け入れるのではなく、東洋的なまなざしを(あるいは日本的まなざしを)向けて、西洋とは違った捉え方をしなくてはならないと感じる。
驚嘆すべきは、宗教事象を結びつけ、紡ぎ出す中沢氏のコーディネート力とナラティブの能力の高さなのではないかと思う。
大阪まで出向いた価値は十分であった。
過日、京都に出かけ、彼岸寺さんのワークショップに参加。題して 真夜中のラジオ vol1.O「お坊さんのススメ」~お坊さんってなんだろうワークショップ~
会場も錦市場のお店の2階の和的空間。なごみますね。座布団で…
初めはお坊さんかどうかは伏せることになっていたが、髪の感じで、お坊さんなんだろうなぁという方が多く、一種独特な雰囲気かも。
女性の参加が意外に多かった。
青江覚峰さん「お坊さんはどんな一日を?」
松本圭介さん「どうしてお坊さんに?」
松下弓月さん「お坊さんになってよかったことは?」
それぞれのお話の後、お近くの人と(2人または3人)でお話。
ワークショップという形態に慣れて居らず、ちょっと戸惑ったが、いろいろとお話ができた。
自らを語ることが苦手な方だが、いつの間にか自分の話にお相手が聞き役になっていただいている場面も。(お相手は聞き上手なお坊さんでした。)
超宗派ということで、いろいろなお坊さんが居るものだとも感心。
真宗山元派という枠組みの中で大切なこともあるが、その枠組みを揺さぶる面白い体験であった。
山元派とカミングアウトすると、初めてこの派のお坊さんにあった、なんていうことになるのも、ご愛敬ということにしておこう。
仏教の研究をしておられる方とお話をする機会を得た。
真宗の在り方、お寺の在り方、等々いろいろなところへ話は発展したのだが、小さな寺で考えていることと、全国の状況をご覧になり、いろいろな在り方をご存じの方の考えていることは、ずいぶん違っており、大きな刺激を受けた。
ずいぶんと今までの意識や在り方が揺さぶられた感じで、視野を広くせんとあかんなあ。と思う。
本日、尼講です。
皆様どうぞお参りください。
私たちは「白衣」(「はくえ」と読みます)を着ることが多い。
ある意味、日常にありふれた「白衣」を着るということにこのような意味があったとは知らなかった。
白衣は死装束なのだそうだ。
言われてみると確かにそうだ。
僧侶の装束が死に関わることは、何となく感じられるけれども、ことばではっきりと突きつけられると、意識がやはり変わる。
この「死」を意識することによって、「生」がより尊いものとなるのです。
白衣を着ることによって生まれる、「今日が最後」という覚悟。
それが悔いなく「今」を生きることにも
家族や友人を慈しむことにもつながります。
永六輔さんのお話のなかで、正月に経帷子を着る人や遺書を書く人を紹介していたが、「死」を意識するということで「生」の尊さを意識するという点で通じるところがある。
今日も白衣を着る。
死装束だということを意識しつつ、白衣を着ることにしよう。
夕方お参りしたおうちで、「歎異抄」のことが話題にのぼった。
学生時代に「歎異抄」をお読みになったということで、悪人正機の話や父母の孝養や
蓮如上人の奥書のことなど、話が広がった。
「歎異抄」については、法話で取り上げることも多いのだが、自分自身この本を充分理解しているのかとの問い直しの場ともなった。
御同朋・御同行とよくいうけれども、まさしくお念仏のもとの御同朋・御同行であるなぁと改めて感じた次第。
先日、御門徒さんの葬儀がありました。
その際、表白(ひょうびゃく)をあげるのですが、葬儀のために表白を作りました。(ひな形があるので、標準的な表白の文章を書き写すだけなのですが…)
その一部を引きます。
ただ願うらくは 遺族知友この機縁にあいて いよいよ 深く真実のみ教えを仰ぎ 摂取の光につつまれて 如来広大の恩徳(おんどく)を謝し 奉らんことを
表白は、そのときの法要の趣旨を仏さまに申し上げるものなのですが、亡くなった人のことをよくしてくださいと申し上げるのではないのですね。
家族や知人の死に出会った生きている私たちに、みおしえを知り、仏さまの恩徳に感謝することを願っています。
信仰の厚い方ももちろんいらっしゃるのですが、私たちはなかなか仏様に自分から遇おうとは出来ないものです。死を機縁として仏さまに出会おう。そう言っています。
真実のみ教えは、亡くなってから出遭うのではなくて、生きている私たちが出遭うものなのですね。仏さまは、そう願われているのだと思います。