本・新聞 Feed

2010年12月 2日 (木)

親鸞なう 九州の末寺

「親鸞なう」についてもフォローがメチャクチャになってきていますが、昨日の「福井新聞」には「第2章真宗十派 (8)九州の末寺」として、山元派末寺の聖光寺さんを紹介している。

正直なところ、私自身はこのお寺のことを名前しか知らなかった。

遠方のこととて、全くどういうお寺かを知らなかったので、今回の記事でよく分かった。

 「(炭鉱があった)当時は、御正忌報恩講や春秋の彼岸会、永代経法要、仏教婦人会法要などを営んでいた。でも、閉山後は、人口が減り法要を営むのが難しくなった。昭和63(1988)年に寺の行事をいったん中止にした」。

寺の行事が営まれないというのは、どういう状態なのだろうか?

よく分からないが、月参りをされ、文章伝道をされているのだという。

人口減少という社会的事情が、てきめんに寺院(の経営)に影響を及ぼすのである。

ある意味、人ごとと言ってばかりはいられない。

お寺がなくなるという現実があることも耳にしない訳ではない。

お寺のあり方を考えてみる必要があるのだろう。

2010年11月24日 (水)

親鸞 「イヤな自分」を克服する本

川村妙慶さんの新著『親鸞 「イヤな自分」を克服する本』を拝読中。

詳しくは読了後に。

副題に「人生の「迷いを断ち切る」言葉50」とあり、御聖教の言葉とそれをかみ砕いた言葉を掲げ、それについて一つ3ページ程度の文章が載せられている。

なにも「イヤな自分」の克服だけを目標にせずとも、人生の指針としてこのご本を手にとってもよいし、身近なところからの真宗入門書としてこの本を手にとっても良いだろう。

妙慶さんの肉声が伝わってくるような印象がある。

2010年11月21日 (日)

涅槃経の教え

古田和弘さんの「涅槃経の教え」を読了。

帯(とはいいながら、カバーにすり込み)の言葉に惹かれました。

父を殺し、母をも殺そうとした阿闍世。

その阿闍世を「わたし」と受けとめられた親鸞聖人。

阿闍世に救いはあるのか?「如来」とは?「衆生」とは?

「わたし」とはどのようなものなのか?

阿闍世への関心から読んだのだが、あまりなじみのない「(大般)涅槃経」というものについてわかりやすく書いてある。

衆生は救われるのか?仏性とは何か?

いろいろと教えていただいた。

親鸞なう 第2章 越前と若狭

本日の「福井新聞」には「親鸞なう」が掲載されている。(第2章ということのようだ)

「①越前と若狭」が1面に。

県内の寺院数が1700あまり。石川約1400、富山約1600を上回る信仰心の厚い土地柄だと。(もっとも、滋賀の方が多いらしいが・・・)

人口比では、福井は富山石川より人口が少ないので、寺密度?はあるいはもっと高いのかもしれない。

そのうち約半数が真宗寺院。

真宗寺院の9割が嶺北にあるという。

真宗が県内に伝わったのは鎌倉時代後期で、東海地方から美濃から大野のあたりに入ってきたのだとしている。

その後坂井・あわらあたりに広がり、丹南地区に伝わったのだという。

13面には、「真宗十派本山を訪ねて」

写真入りで、十派本山を紹介。

證誠寺ももちろん紹介されている。

「木造阿弥陀如来立像」も写真入りで紹介。

阿闍世

最近の私の関心は阿闍世へと向かっている。

大舎城の悲劇の主人公の一人で、父を殺し母を幽閉するという五逆の罪を犯してしまう。

この阿闍世が救われるというところに、親鸞聖人は関心を向けられていたようだ。

浄土三部経の一つ「仏説観無量寿経」は、大舎城の悲劇を取り上げるのだが、残念ながら阿闍世の救いは書かれていない。

韋提希にお念仏を勧める、韋提希が救われるというところまでだ。

お念仏によって救われるということであるから、浄土真宗の正意を伝えてはいるのだが、自分の罪によって悩み苦しむ阿闍世はどうなるのだろう。

親鸞聖人は教行信証ではかなりの量を阿闍世の救いに割いておられる。

都路惠子さんのご本でそこのあたりを学ばせていただいたが、CDで教行信証の朗読を結構聴かせていただいている。

都路さんのように、劇的に教行信証が理解できるようになったわけではないし、阿闍世に関する場面だけなので、全体が理解できたわけでは、もちろん無い。

しかし、何となく身体にしみてきたような(まだまだ中途半端ですが)感じがしてきている。

そんな折、「法語カレンダー随想集 今日のことば 2011」で、狐野やよいさんの文章を読んで、阿闍世の言葉に強く心を打たれた。

「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」(教行信証 信巻)

自分の恨みのために父や母を苦しめ、自分も罪に苦しむという体験を経た阿闍世の言葉として、この言葉は無上の回心の表明なのだろう。

うかつにも最初この言葉には、ちゃんと気づかなかった。

読み返しをして、涙が出るような気持ちになった。

親鸞なう 土田ヒロミさん

「写真表現は、他者と交わりながらつくっていくものだ。

自力だけでつくるという考えを持ったら、リアリティーのある写真は撮ることができない。

被写体から与えられるもの、教えられるものを大事にするのが写真だと思う。

ある意味、他力ですよね」。

写真と他力がむすびつくという指摘から始まる。

篤実な信仰者というのではなく、「親鸞を歩く」で写真を担当したところから、親鸞に対する思いが深まる。

「親鸞が生きた空間を共有する機会」であった。

「悟りからほど遠い、いたらない自分をさらけ出して、『こんな人間が救われるのか』と自分自身をサンプルとした」

ある意味、親鸞聖人のあり方を的確に捉えている言葉と受け止められるだろう。

記事はこちらから

宮崎哲弥さんの回がまだ掲載されていないのだが、東本願寺の番組の司会をされていたり、(フォローするのを忘れました。この人は、五木寛之さんとお話しすると、かなり共振されます。仏教理解は深いようですね。)これはいずれということで。

親鸞なう 禿了滉さん

「福井新聞」の「親鸞なう」について、途中からフォローしていませんでしたが、「福井新聞」HPに掲載され始めたようなので、そこからフォローしていきたい。

 「生まれたとき、虚弱児だったんですよ。医者がね、『この子は15歳までは無理かもしれん』と言っていたようだ。虚弱な体と心だった私には、『弱い私』と向き合った親鸞聖人の教えがぴったりとくる」。

「自己中心的だった考えが大きく変わった。今思えば、生かされているという親鸞聖人の教えとの出合いだった」(四高時代の大病を振り返って)

「親鸞聖人は鋭く自己探求をした。すごいところは、一つは生かされている命の感動の上に教学を展開したことだ。もう一つは、今から750年前の教えながらすごく新しい、現代的なところ」

いくつかの発言からは、この人の人生が深く親鸞聖人の教えに根ざしていることが伺える。

人を信じよう、と伝えたい

川村妙慶さんが「京都新聞」の取材を受け、新聞に掲載されたということは聞いていたが、新聞を見ることは出来ないのだろう、と思っていた。

すると、ネットを見ていたらその記事が「京都新聞社会福祉事業団 ふれあい福祉」というページに「この人と話そう」というコーナーがあり、そこに掲載されている。

新聞ではかなり大きな記事として扱われていたようだ。

東本願寺で撮った写真を見て、高校生が「玉の輿に乗ったなあ。こんな大きな寺の奥さんになって」と言ったとか。(「東本願寺で」と明記されています。)

「『出しゃばりおばさん』を目指して、周りの人に声をかけることを心がけています」とは、写真の下につけられた言葉。なかなかすてきです。

詳しくはHPでご覧あれ。

本日より、本山證誠寺で御正忌報恩講が勤まります。

本日の逮夜にお取り次ぎのご縁を結ばせていただきます。

ご都合のつく方は、是非御聴聞ください。

正善寺の永代経のご案内

永代経

 11月23日(火) 

  日中 午前10時より(内勤め) 

      勤行 仏説阿弥陀経

  逮夜 午後3時より(村国山元派寺院結集)

      勤行 仏説観無量寿経

  説教 住職

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2010年11月 8日 (月)

「東大卒僧侶の『お坊さん革命』」

前にも少し触れた松本圭介さん「東大卒僧侶の『お坊さん革命』」を読み終える。

副題に「お寺は最高のエンタメ発信地」 帯には「寺は気軽な場!葬式だけじゃもったいない」

松本さんは「彼岸寺」で活躍するお坊さん。現在はインド留学中だそうだ。

お寺カフェやライブ「誰そ彼」なども手がけている。

現代のお寺やお坊さんを模索している人の一人だろう。

これからのお寺やお坊さんのあり方を考えるには(ちょっと、先進的すぎて私はついて行けないかもしれないが・・・)面白い本だ。

2010年11月 7日 (日)

生命の見える時 一期一会

松本梶丸さんの『生命の見える時 一期一会』を読む。

著者はいろいろと著作があり、一度お話をお聞きしたいと思っていた方の一人だが、お浄土に還られたと知って、残念に思う。

新聞に載せられたエッセイを集めた本だが、生命や人生というものに関して、感銘深いエッセイが多い。

「そうか」と、全身をうなずかしめるものに出合うとき、いのちはおのずから感動する。それが人間が生きているということなのだ。

いのちの重さが軽くなったような、実体が薄れてきたような現代、このような「いのち」を指摘する松本さんの視線は、きちんと命や生と向き合っていると感じる。

珠玉のエッセイと言えるだろう。

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