除夜の鐘。
あと一時間と十五分くらいで除夜の鐘ですね。
正善寺に除夜の鐘をつきに来てくださいね。
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あと一時間と十五分くらいで除夜の鐘ですね。
正善寺に除夜の鐘をつきに来てくださいね。
いよいよ後数時間で、平成21年も暮れようとしています。
今年、この「THE SHOUZENJI TEMPLE」を見ていただいた皆様に、ささやかながら感謝の意を表しておきたい気持ちです。
いろいろとお寺をめぐる状況も変わってきています。
変化の大きな時代故、ある意味ではその変化を受け入れていかなければいかない面もあると思います。
しかし、阿弥陀様のお慈悲や信心は変わることのないものです。
新しい年に、一人でも多くの方が御法に出遭い、阿弥陀様のみひかりを感じていただけるようになることを願ってやみません。
今年一年、本当にありがとうございました。
「福井新聞」の「心のしおり」では、了慶寺住職の藤枝宏壽さんが高光大船の句を紹介しておられる。
痴心未了今年の秋も暮るるらし 高光大船
藤枝さんは、「痴心未知」に言及して私たちに煩悩を知ることの大切さを説かれるのだが、煩悩を持っているという私の姿を知ることは、重要なことだと思う。
何よりも、私たちが煩悩を持ち、その煩悩が果てることがないことを読む高光大船の句は、私たちの真の姿を映し出す、阿弥陀様のみひかりにも似た趣がある。
私たちは、一生煩悩から切れることがない。そのことを認識した上で、はじめて何かが捕まえられるのだろう。
いい句を紹介していただいたことに感謝したい。
本堂の風除室工事がほぼ終わりました。
今まではシートを張っていましたが、冬の寒い時期、雪割りを通った後、少しはあたたかくなってくれるのではないかとおもいます。
お正月に参詣される方が、ちょっとほっとしてくださるといいですね。
この風除室、工事関係の方々、総代さんを始め、正善寺同行の皆様にたいへんお力添えをいただいて完成したものです。
この場を借りて、関係の方々に謝意を表したいと思います。
宗祖七五〇回忌大遠忌を迎えて
親鸞聖人が京都でなくなられてから、七百五十年近い年月を数えます。真宗山元派では 平成二十三年六月十一日(土)~十三日(月)に七五〇回忌大遠忌の法要を行うべく
準備を進めています。そのテーマ・基本理念は次のようになっています。
「みひかりにつつまれて」
五十年に一度の御遠忌に遇えた事を慶び、聖人の偉大なご遺徳を改めて知ると共に、みほとけの慈悲の光に照らされて生かされているこの私であると日々感謝いたしましょう。
私たちは、いつも阿弥陀様のみひかりにつつまれて生きています。そのみひかりは、摂取不捨といわれ、また、私たちの真の姿を映し出してくださるものです。誠に有り難いみひかりであるのですが、私たちはそのみひかりに必ずしも気づいているわけではありません。そのみひかりに気づき、感謝することを親鸞聖人は私たちに教えて導いてくださいました。
御遠忌の法要を僧侶・御同行ともに聖人のお導きにより、お法に出遭えたことを喜び合える機縁にいたしたいと思います。
「證誠」22号が手元に届きました。皆様のお手元に届くのは来年かと思いますが、駄文を載せましたので、ご笑覧ください。
アリ
アリを見ると
アリに たいして
なんとなく
もうしわけ ありません
みたいなことに なる
いのちの 大きさは
だれだって
おんなじなのに
こっちは そのいれものだけが
こんなに
ばかでっかくって・・・
まどみちおさんの詩は、あたりまえに思える人間の視点を揺さぶるところがあるようです。
「いのちの 大きさ」とは、すごい言葉の使い方だとは思いませんか?
海原純子さんの「心のサプリ」(「毎日新聞」)の一節。
物質的に満たされない社会だからといって、必ずしも心が満たされないわけではない。
(中略)
効率で考えれば切り捨てるべき人の手助けをあたりまえだと考え、歌いながら水を運んでいた姿は今も私の脳裡に焼き付いている。
仕方なく手助けをするのと、あたりまえだから手助けをするのは違う。
せねばならぬことと、自然にできることの違いともいえる。
この差は、他者に共感できる力の差でもあろう。
仏教は「自利利他円満」を目指す利他行を言います。
せねばならぬこととして人助けを考えると、それは辛い義務になってしまうかもしれません。
でも、あたりまえとして、自分のことと感じてできれば、それは自然な行為になるのでしょう。
自分の利益や効率を優先させるとなかなかこういうことはできませんが、「他者との共感」できる社会になれば、自然と「利他」に目が向くのでしょうね。
自戒も込めて、海原さんの文章を味わうところです。
塗香(ずこう)というのを知っていますか?
ある方から塗香をいただき、手に塗って(?)みました。
初めての体験です。
良い香りがして、心が落ち着く感じです。
宗派や地域によっていろいろな作法があるそうですが、ネットを見てると、いろいろな種類のものがあり、リフレッシュに使ったりする方も多いようですね。
川村妙慶さんと川村寿法さんの共著「心コロコロ介護のこころ」を読ませていただきました。
寿法さんと妙慶さんはご兄妹。お母さんの介護に当たられた経験も。
帯の言葉を引いておきましょう。
苦しかったり、つらかったり・・・・・・
心がコロコロ変わって尽きることのない介護の悩み。
なかよし僧侶兄妹が、仏さまの教えを通じて
心をホッと楽にさせてくれます。
介護の悩みを身をもって知っているものではありませんが、いろいろ見聞きするところでは、介護者にとっても、要介護者にとっても、苦しみやつらさを伴うのが介護であるということはわかります。
その苦しみや悩みを仏教の教えをもとに解きほぐそうとしてくれるのがこの本。
今回、寿法さんのウサギと亀についてのお考えをまとめて読めたのがうれしく思われます。
妙慶さんの御著書や寿法さんのブログなどで、寿法さんがウサギとカメの話を御説法や演劇に取り入れていることは知っていましたので、顔見知りの友人と改めて深くわかり合えたような感じです。
介護が目前の問題としてある人も、そうでない人も(いつ介護される・介護する という立場に立つかわからないのですから、すべての人が心の準備が必要だと思います)仏さまの教えを通して、介護を考えてみませんか?
『ひろさちやのほどほど人生論』(「日刊県民福井」)は「無根拠の愛」という題。
その最後の一節を書き写してみましょう。
信ずるということ、また愛するということは、無根拠のものでなければなりません。
理由も根拠もなしに、「ただ愛する」「ただ信じる」というのが、本当の愛であり、信なのです。
親鸞聖人は「絶対他力」といわれました。
「信心」に重きを置かれました。
私たちは、阿弥陀様を「ただ信じる」、これが大切なのではないでしょうか。
詳しくは、ひろさちやさんの文章をお読みいただきたいと思いますが、根拠や理由のある「信」は、何か見返りを求め、私の思い通りになってほしいという心からのものです。
真宗の信心は、「如来より賜りたる信心」。
自分が信じようと思って、理由や根拠を求めて信じるのではないのです。
阿弥陀様からいただいた信心なのです。
「ただたのむ」ということなのです。